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神によって霊が奮い立たせられた者たちの帰還

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エズラ記の目次

2. 神によって霊が奮い立たせられた帰還者たちの名簿

【聖書箇所】 2章1節~70節

 ベレーシート 

  • 2章の一番最後の節には次のように記されています。

    【新改訳改訂第3版】エズラ記 2章70節

    こうして、祭司、レビ人、民のある者たち、歌うたい、門衛、宮に仕えるしもべたちは、自分たちのもとの町々に住みつき、すべてのイスラエル人は、自分たちのもとの町々に住みついた。

  • 「すべてのイスラエル人」とありますが、実際には、ユダ族とベニヤ民族、そしてレビ部族です。かつてエルサレムと神殿が滅ぼされてバビロンの捕囚となった者たちとその子孫(二代・三代目)が、神に霊を奮い立たせられて帰還した最初の者たちのリストが記されています。

1. 神の慰めによる帰還者たち

  • 2章には捕囚後、最初に帰還した者たちのリストが淡々と記されています。歴史書とはそういうもので、その背後にある人々の思いや、神の思いなどは記されていません。しかし歴史の中に生きる人々にはそうした生き生きした生の思いがあるのです。
  • イザヤはやがて捕囚から帰還する者たちのために神のからの慰めのメッセージを語っていました。それが40章にあります。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書40章
    1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
    2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」

  • イザヤ40章1節の「慰めよ。慰めよ。わが民を」という呼びかけは、神がご自分の民の罪を赦して、自由にして、新しく立ち上がらせようとして励まし、力づけようとしているのです。これが神の「慰め」です。なぜなら、主の民が悔い改め、主のみおしえに従うようになったからです。
  • エルサレムに帰って来た帰還者たちは、ペルシアの王クロスの勅令の中に神の慰めを聞いたはずです。「その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを主から受けた」とあります。「二倍のもの」とは長子に与えられる権利です。彼らは自分たちが神に対して罪を犯した者であることを知り、悔い改めて、二代・三代かけて神が与えて下さった神の教え(トーラー)に従って歩むトーラー・ライフスタイルを築くようになりました。彼らはバビロンにおいて真剣に神を尋ね求めるようになり、神を見出したのです。そんな彼らに神は、再び神の長子としての権利を回復されたのです。そんな熱い思いを与えられて帰還した者たちでした。

2. 系図と帰還者たちの名簿の意味

  • 異邦人にとっては、系図や部族の人数などは、マタイの福音書の系図や、民数記の各部族の人数と同様、退屈で、意味のないことのように思えますが、神によって選ばれたユダヤ人にとっては決してそうではなく、彼らの民族的アイデンティティにおいてきわめて重要な事柄なのです。
  • 旧約聖書の「民数記」には、約束の地に入って行く神の民に対して、最初に神から命じられたことは、民のうち、20歳以上の男子を、氏族ごとに(民1:2)、父祖の家ごとに(1:2)、部族ごとに(1:4)―これらの語彙はすべて同義―ひとりひとり調べて、その「家系を登録する」ことでした。
  • 家系を登録するということは、神の民のひとりひとりが自分がどこに所属しているのかを明確に意識させるだけでなく、神がアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約とその保障の中にあることを確信させる必要あったのです。民数記とは異なり、捕囚からの帰還に際しては神は特別に家系の登記は命じてはおりません。しかし長い歴史の中で、そのことが大切であることを帰還した者たちは神のトーラーから教えられていたと考えられます。また、人数は帰還した場所を確認することは、神の民がエルサレム付近において、神の新しいわざにかかわっていくうえで、必要な処置であったはずです。

3. 帰還者たちの指導者であったゼルバベル

  • 帰還者たちの指導的立場にあった者たちのリストが、2節に記されています。そこにはこうあります。

    2章2節
    ゼルバベルといっしょに帰って来た者は、ヨシュア、ネヘミヤ、セラヤ、レエラヤ、モルデカイ、ビルシャン、ミスパル、ビグワイ、レフム、バアナ。・・

  • この記述を見る限り、指導者たちの中での責任者は「ゼルバベル」という名の人物であることが分かります。彼は1章11節では「シュシュバツァル」というバビロン名になっていましたが、2章ではヘブル名の「ゼルバベル」という名前になっています。その意味は「バビロンの種」という意味です。彼はB.C.598年にユダの王エホヤキムの王族の一人です。すでにユダの王制は捕囚とともに廃絶されていますが、ダビデの王家の直系の子孫ということで、ユダの民を率いる指導的立場に立たされた人物の一人でした。もう一人代表的な人物がいます。それは大祭司のヨシュアです。この二人が新しいエルサレムを再建し、神殿をも再建する指導者となったのです。やがて20年後にエルサレムに第二神殿が立ちますが、その別名は「ゼルバベル神殿」とも言われています。
  • エルサレムの再建、神殿の建設、そしてイスラエルの復興、これらの大事業には常に敵が妨害します。この敵の挑戦はサタンの謀略の予型です。つまり、神の敵であるサタンは武力、権力、あるゆる力を結集して神のご計画を成就するメシアの来臨を必死て妨害するということです。なぜなら、メシアの来臨はサタンの終焉を意味するからです。預言者ゼカリヤは御使いの声を聞きました。

    【新改訳改訂第3版】ゼカリヤ書4章6~7節
    6 すると彼は、私に答えてこう言った。
    「これは、ゼルバベルへの【主】のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の【主】は仰せられる。
    7 大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」

  • ここで重要なことは、真のイスラエルの霊的回復、そして神殿の再建は『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』なされるということです。


2013.9.4


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