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神の「あわれみの器」として召し出された者

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パウロのイスラエル論

3. 神の「あわれみの器」として召し出された者

【聖書箇所】9章19~33節

ベレーシート

  • ローマ人への手紙9章において、パウロが訴えようとしていることは、神の主権による自由です。その自由さは、神の選びにおいて、また、みこころのままに人をあわれんだり、人の心をかたくなにさせたり、人をつまずかせたりすることにおいて現わされているとしています。このことに対して、人は神に言い逆らうことはできないのだということを説明しようとしています。

1. 「陶器師と器」のたとえ

  • 聖書は、神とイスラエルの関係を「陶器師と器」のたとえで表しています。そのことを知っていたパウロは以下のように述べています。

【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙9章20~21節
20 しかし、人よ。神に言い逆らうあなたは、いったい何ですか。形造られた者が形造った者に対して、「あなたはなぜ、私をこのようなものにしたのですか」と言えるでしょうか。
21 陶器を作る者は、同じ土のかたまりから、尊いことに用いる器でも、また、つまらないことに用いる器でも作る権利を持っていないのでしょうか。


  • 神である主は、預言者エレミヤに対して、神の主権性を教えるために陶器師の家に行かせ、その仕事ぶりを見させました。陶器師が粘土で制作中の器を自分の手で壊して、再びそれを陶器師自身の気に入った他の器に作り替えているのをエレミヤは見ました(エレミヤ書18章)。続く19章では、陶器師が器を砕くと二度と直すことができないように、ユダの民とエルサレムの町を壊滅的に砕くという主の意図が明確に記されています。ところが、神の怒りによって砕かれ(滅ぼされ)てしかるべき「怒りの器」を、豊かな寛容をもって忍耐してくださることも、神の自由な主権性によるものです。

【新改訳改訂3】イザヤ書 64章8節
しかし【主】よ。今、あなたは私たちの父です。
私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。
私たちはみな、あなたの手で造られたものです。


  • 陶器師が器を作る場合、同じ土のかたまりから、「尊いことに用いる器」と「つまらないことに用いる器」を自由に作る権利を持っているように、神も同じく、「尊いことに用いる器」を造る権利を当然持っておられるのです。その例としてパウロが挙げているのが「あわれみの器」と言われるものです。滅ぼされて当然の「怒りの器」が神の豊かな寛容によって忍耐され、「あわれみの器」として用いられるとしたらどうでしょうか。それも神の主権によるものでなくてなんでしょうか。

2. 神の栄光を現わす「あわれみの器」

  • あわれみの器」というフレーズは、ローマ書9章23, 24節にのみ使われています。この器のことをパウロは「神がご自身の豊かな栄光を知らせるために、あらかじめ用意しておられた」と説明しています(9:23)。「あらかじめ」とは「この世界の基が据えられる前から」という意味だと理解します。しかも、この「あわれみの器」の中には、ユダヤ人の中からだけでなく、異邦人の中から召された者たちがいるのです。
  • パウロはこの啓示を、25節以降において、ホセアとイザヤの預言書のみことばを自由に引用しながら説明しています。なぜユダヤ人だけでなく、異邦人から召された者を、神はあわれみの器として用いようとするのか、ここに神の奥義があります。
  • ユダヤ人が「つまずきの石」(メシアを象徴する「石=御子イェシュア」)につまずいたのも、彼らがつまずくように神がそれを置かれたのでした。なぜなら救いが異邦人に及ぶためにです。すべてが神の主権の自由によって、みこころのままになされているのです。


2017.7.14


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