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神の国の中核的存在である「人の子」の概念(改定)

53. 神の国の中核的存在である「人の子」の概念(改定)

【聖書箇所】 17章20節~37節

ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου

はじめに

  • ルカの福音書における「人の子」についての言及は23回あります。「人の子」はイエスが自分自身のメシア性を宣言する称号であり、イエスだけが使うきわめて独自な表現です。
  • 誰かがイエスに尋ねた事柄を契機として、それを導入として用いながら本来語るべき事柄が語られるというのがルカの福音書の書き方の特徴です。17章20節においても、パリサイ人がイエスに「神の国はいつ来るのか」と尋ねたことによって、イエスは神の国と密接な関係のある「人の子」について語ります。したがって、17章20節~37節までの焦点は「人の子」です。24, 25節では「人の子」、22, 24, 26節では「人の子の日」、30節では「人の子の現われる日」という表現がなされています。

1. 神の国は、あなたがたのただ中にある

  • 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて、福音を信じなさい。」―これがイエスの公生涯最初のことばでした。「神の国」と訳されたギリシャ語は「バシレイア」βασιλειαは、「王国、王の統治、王の支配」という意味です。「天国」と訳されます。この場合の「天」とはヘブライ的表現で「神」の言い換えです。神が王としての権威をもって統治としている領域を意味します。
  • すでに、イエスの来臨によって罪は赦され、負債は免除され、多くの神のいやしの力が働く神の支配が始まったにもかかわらず、パリサイ人をはじめとする宗教指導者たちや群衆はそのことに気づきませんでした。なぜなら、異邦人による長年の支配から自分たちの国を解放する政治的メシアを待望してきたからです。ルカ17章20節のパリサイ人たちの「神の国はいつ来るのか」という質問はそのことを伺わせます。
  • それに対して、イエスは神の国は人の目に見える形、観察できるような形ではなく、「あなたがたのただ中にある」という表現で、すでにイエスが語ること、イエスのなすことを通して、神の国がすでに来ていることをほのめかしていすますが、このことになかなか気づかなかったようです。

2. 「人の子」の概念

  • イエスはご自分が政治的なメシアと混同されることを避けるために、自分のことを「人の子」という表現を用いました。だれかがイエスのことを指して「人の子」と言ったのではなく、自分のことを、それもメシア的称号として用いられたのです。ですから、イエス以外にはだれもこの「人の子」という称号を使ってはいません。イエスは故意にこの表現で自分のメシア性を表したのです。
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  • 新約聖書の福音書の中でイエスが「人の子」と表現しているところをチェックしていくと、「人の子」の概念が浮かび上がってきます。大きく分けると三つに分類できます。

    A. 地上での働きにおける王的権威を発動するメシア

    ●王的権威をもって人の罪を赦したり、救いを宣言したり、癒しの奇蹟をしたりというように、実際、当時の地上での働きに見られる「人の子」の姿です。これは旧約のダビデの家系から王的権威をもった「ダビデの子」としてのメシアが来ていることを示しています。イエスの家系は王ダビデにつながっているのです。

    B. 王的権威が人間の権威によって拒絶される苦難のメシア

    ●しかし「人の子」による王的権威(ダビデの子)は、人間の権威によって拒絶され、排斥され、やがて苦しめられて、殺されます。それがイザヤが示した「苦難のしもべ」のメシアです。「人の子は必ず罪人らの手に引渡され、十字架につけられる」ことが定まっていたのです。この面も当時の人々には受け入れがたい概念でした。

    C. 未来における審判者としてのメシア

    ●死から復活する「人の子」はやがて再臨され、すべての人を裁く審判者でもあります。今回の箇所ではこのことが特に強調されています。人の子が審判者としてさばく日は一瞬にしてやってきます。これは地上再臨を示しています。しかし、31節の「その日には」とは、その前の患難期の七年間の真ん中(三年半)で「荒らす憎むべき者」(獣である反キリスト)が至聖所に立って自分そこ神と宣言して礼拝を要求する時のことです。その日には、屋上にいる者も畑にいる者も、家に帰ってはならなこと、ロトの妻のように未練をもってはならならないことを諭しています。34節以降は、患難時代が終わるころに、千年王国に入ることが許される者と許されない者とに分けられることを、「取られる」者もいれば、「残される」者もいると表現されています。ここは携挙のことを言っているのではなく、地上再臨のことが語られています。

    【新改訳改訂第3版】ルカ17章30~35節
    30 人の子の現れる日にも、全くそのとおりです。
    31 その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、畑にいる者も家に帰ってはいけません。
    32 ロトの妻を思い出しなさい。
    33 自分のいのちを救おうと努める者はそれを失い、それを失う者はいのちを保ちます。
    34 あなたがたに言うが、その夜、同じ寝台でふたりの人が寝ていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます
    35 女がふたりいっしょに臼をひいていると、ひとりは取られ、他のひとりは残されます。」

    ●ここで「取られ」と訳されたギリシア語の「パラランバノー」παραλαμβανωは「連れ去られる」という意味、そして「残される」と訳されたギリシア語「アフィエーミ」αφιημιは「取り残される」という意味です。前者は「御国に入れない者」を意味し、後者は「御国に入る者」を意味します。「御国に入る者」は、いのちを得ようとして、反キリストを神として拝まないことです。たとえ殉教しても、キリスト再臨後にはよみがえらされるからです。

    ●弟子たちは前者の「取られ」る者に対して、「どこに」(「プー」ποῦ)と主に尋ねています(37節)。主は「死体のあるところ、そこには禿鷹が集まります」と答えています。そこはエルサレムの近くに入る者あるベン・ヒノムの谷のことです。


最後に

  • 「人の子」についての概念をしっかりと頭に留めておくことで、いろいろな場面で登場する「人の子」のどの面が強調されているかが分かります。

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2019.4.1(改定)

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