****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

神の指による悪霊追放とそうでないものとの違い

39. 神の指による悪霊追放とそうでないものとの違い

【聖書箇所】 11章14節~36節

はじめに

  • イエスがおしの霊につかれている人を解放したことを通して、二つの反応が引き起こされました。それに対してイエスが答えられたことが17節から36節までの内容です。
  • イエスに対する二つの反応とは

(1) 悪霊どものかしらベルゼブルによって、悪霊どもを追い出していると言う者たち
(2) さらなる「天からのしるし」を求める者(原文は複数)たち


(1) に対しては、11章17節~28節で
(2)に対しては、11章29節~36節で、それぞれ答えています。15節の「彼らのうちの者」とは、並行記事のマタイ12:24では「パリサイ人」、マルコ3:22では「律法学者たち」となっています。ルカ11:39~52では彼らに対する厳しい叱責がなされています。


1. (1)に対するイエスの反論

(1) どんな国でも家でも、内輪もめしているならば荒れすたれ、つぶれるゆえに、かしらとその手下どもが争いを起こすはずがない。

(2) 「あなたがたの仲間」(パリサイ人の仲間)にも悪霊を追い出す者がいたようで、彼らはだれによって追い出しているかという問いかけ。もし、自分たちは神の力によってというなら、同じくこのわたしもということになる。

(3) もし、わたしが神の指(聖霊のこと)によって悪霊どもを追い出しているなら、神の国はあなたがたに来ている(アオリスト)のだということ。

  • イエスがここで「神の指」という表現を使ったのには理由があります。それはモーセがエジプトのパロのもとへ行って、奴隷たちを解放するように要求したとき、パロはその要求を拒みます。そこでその要求が神からのものであることをあかしする奇蹟を行いますが、エジプトの呪法師たちも同じ奇蹟を行います。しかし、それが三度続き、四度目の「ぶよ」の奇蹟に至ったては、「これは神の指」ですと言って、自分たちには到底真似ができないことを呪法師たちはパロに進言します。この出来事が背景になっています。
  • 「強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。」(ルカ11:21)にある「強い人」とはエジプトのパロのような存在です。「しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。」(11:22)の「もっと強い者」とは、神ご自身を表わしています。事実、神の力によって神の民イスラエルがエジプトを出るときには、多くの貴金属や家畜や小麦粉などを剥ぎ取るようにして脱出しました。まさに、神の力によってそのことがなされたのです。
  • しかも、イエスは神の国が来ているということはどういうことか、つまり、神の指による「悪霊追い出し」と、そうでないを「悪霊追い出し」の違いについて次のように述べています(24~26節参照)。
  • 神の指によらない悪霊の追い出しは、「追い出す」ことはできても、また再び戻ってきて、以前よりもさらに悪くなることをイエスは警告しています。逆に言うならば、イエスの「神の指」による悪霊からの解放はそのようなことには決してならないというのがイエスの言わんとしていることです。これが神の聖霊による恵みによる福音なのです。まやかしの福音を伝えていないか、真の福音の問い直しを迫られている発言です。
  • 神が遣わされたイエスのことばを聞き、それを守る(キープする)ことをしない者たちは、イエスの味方ではなく逆らう者であり、同時に、イエスのものを散らす者であると23節で断定しています。

2. (2)に対するイエスの反論

  • イエスの悪霊追い出しの奇蹟を見ながらも、さらなる「天からのしるし」を求める者たちがいました。それに対する反論として、イエスは「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません」と語っています。ヨナのしるしも31節に出て来る南の女王(シェバの女王)もいずれも旧約聖書に出て来る人物です。ヨナは預言者であり、南の女王は異邦人です。
  • 「ヨナのしるし」とは何でしょうか。ヨナは神からアッシリヤの首都ニネベに行って神の告げることばを語るように言われます。しかしヨナはそれを拒み、主の御顔を避けて反対の方角へ逃げようとして船に乗り込みます。ところが、嵐が起こり、その原因がヨナにあることが明らかになったため、人々はヨナを海に投げ込みます。すると海は静かになります。主はヨナを大きな魚を備えて飲み込ませました。三日三晩、ヨナは魚の腹の中にいたのですが、ヨナが悔い改めるとその魚からでることができました。そして主は、再びヨナをニネベへと遣わしました。不思議なことに、ヨナが語ったことばによって、その大きな町ニネベの王をはじめとして、多くの人々は悔い改めて主に立ち返り、さばきを免れました。つまり、「ヨナのしるし」とは、「人の子が三日三晩地の中にいること」と同時に、ユダヤ人は悔い改めなかったのに、異邦人は悔い改めたということです。
  • 「ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。」(30節)とは、ヨナの時代にニネベの人々が悔い改めて、神のさばきを免れたように、今は、人の子によって、人々が悔い改めて、神のさばきを免れるしるしとなる(未来形)ことを語っているのです。
  • さらに、南の女王が知恵を聞くために地の果てからソロモンのところまで来たことを例に、そのソロモンよりもまさる者、ヨナよりもまさった者(イエスご自身)がいるにもかかわらず、わたしのもとに来て、悔い改め、信じようとしないことを、イエスは「天からのしるしを求めている者たち」を責めているのです。

3. 光に対する目が健全であるようにと警告されるイエス

  • イエスはしばしば人々に対して、「耳のある者は聞きなさい」、「聞くことに注意なさい」と語っていますが、ここでは「光を見る目」について語っています。「からだのあかりは、あなたの目です」(34節)と「目」に注意を払うように警告しています。 光は隠れることなく、すでに燭台に置かれているのです。しかしその光を見る「目」が問題なのです。ここでは神の光を見る「心の目」、あるいは「霊的な目」を意味していることは言うまでもありません。
  • 使徒となったパウロは、光に対して反抗していました。彼の心の目が開かれていなかったからです。しかしダマスコ途上において「天からの光」が彼を照らし、三日間、盲目とされます。しかし、やがて彼は「目からうろこのようなものが落ちて、目が見えるようになり」ました。神の光をはっきりと見ることができるようになったのです(使徒9:18)。そのパウロが次のように言っています。

【新改訳改訂第3版】
エペソ人への手紙 1章18, 19節
あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。


2012.1.19


a:8228 t:2 y:2

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional