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神の救いにあずかるとは・・

55. 神の救いにあずかるとは・・

【聖書箇所】 18章9節~30節

はじめに

画像の説明
  • そもそも、なぜ18章9節~30節に区切ったのか。そこにこそ今回の突っ込みの意図があります。ルカという人は異邦人ですが、ユダヤ人の思惟や表現法にかなり慣れているように思います。今は現存しませんが、イエスが語った語録はへブル語で書かれていたとすれば、それらの資料を扱いてギリシャ語に翻訳する段階においてへブル的な流れを踏襲しようとしている思います。その一つがへブル語特有の特徴としてほとんど各節に使われている接続詞の多用であり、もう一つは、今回取り上げる「パラレリズム」によるテーマ(思想)における流れです。
  • ルカは18:9~30において、三つの話を同義的並行法を用いているように思います。図が示すように、神の救いを三つの話を用いながら説明しようとしています。

1. 義と認められること(9~14節)

  • ここでのイエスの話は「祈りについて」ではありません。パリサイ人から蔑まされていた取税人が「義と認められて」帰ったということです。これは神から義と認められるために生きてきたパリサイ人にとってまさに晴天の霹靂でした。なぜ取税人が義とされて帰ったのか。それは取税人が「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」と祈ったからです。自分が罪人であることを認め、ひたすら神のあわれみにすがったことが、神の目に義、すなわち正しいかかわりだと認められたのです。「悔い改め」を含む神への全き依存、神への全き信頼が、神から義と認められたのです。
  • 「義」はギリシ語で「ディカイオスネー」δικαιοσύνηですが。そのヘブル語は「ツェダーカー」。「義とされる」の動詞「ディカイオー」δικαιώのヘブル語は「ツァーデーク」צָדֵקです。使徒パウロはギリシャ語の「ディカイオー」を「義でない者を義につくりかえる神のわざをあらわす意味で用いています。つまり、行いではなくイエスを信じる者を義と認める神の義、それはまさに、神の救いと同義です。

2. 神の国に入る

  • イエスが語った18章15~17節の話は「救い」を「神の国に入る」こととして語っています。イエスの弟子たちは人々がイエスのもとに連れてきた幼子たちを見て叱りました。ところがイエスは「子どもたちをわたしのところに来させなさい」と言います。なぜなら、「神の国は、このような者たちのものです。・・子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできないまん」と。
  • 「子ども(幼子)のようになる」ということが「神の国に入る」上で重要だということです。ここでいう「子ども」とは、字義通りの「子ども」ではなく、当時のイエスの弟子たち、および民衆(女性、取税人なども含みます)のことを指しています。ちなみに、「子」に対する「大人」とは当時の宗教指導者のことを意味しています。パリサイ人が神の前に義とされず、イエスの弟子たちや民衆たちが義とされたことを意味しています。なぜなら、神の国を受け入れるとは、イエスを受け入れることと同義だったからです。その点、パリサイ人や律法学者たち、そして祭司長たちはイエスを受け入れなかったために、神の国に入ることはできないことをイエスは語ったのでした。

3. 永遠のいのちを得る

  • 三つ目の話は、永遠のいのちを求めるある役人の話です。「何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるか」という問題提起をもってイエスのもとにやって来ました。神の戒めを小さい時からみな守っていると豪語する役人に、イエスは「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。」と言います。その「欠けた一つ」とは、神を何よりも愛する愛の欠如です。その証拠にその役人は自分が神よりも財産に固執していることを示されます。
  • イエスのいう「永遠のいのちとは、何よりも神を愛し、神に仕えることを喜びとし、神に完全により頼む、神の救いを楽しむリアリティです。役人は「永遠のいのち」を求めながらも、神を第一とし、何にも代えがたい存在して、神を愛することのできない自分をイエスによって突き付けられたのです。

2012.6.28


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