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神の救いの究極としての「神の御顔を仰ぎ見る」世界

結論 2  神の救いの究極としての「神の御顔を仰ぎ見る」世界

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  • 神の最終的な救いの目的は、「神の御顔を仰ぎ見る」ことである。これは旧約時代にはあり得なかったことであり、モーセでさえ神の後ろ姿を見ただけであった。神の臨在に満ち溢れた礼拝の究極とは、神の御顔を目の当たりに「仰ぎ見る」ことにある。

1. 神の御顔が意味するもの

  • 神と「顔と顔を合わせて」(face to face)まみえる交わり、ただ神とだけ共に過ごす交わりが存在する。といっても、やがてもたらされるであろう完全な視力と比較すれば、「私たちは鏡にぼんやり映るものを見ている」(Ⅰコリント13章12節)にすぎない。「顔と顔を合わせて」神と交わることは、神の子どもである私たちの生まれながらの権利である。しかし、今日のあらゆる知識にもかかわらず、すべての神の子たちが、神との直接的な交わりを持つほどに、神を知っているわけではない。
  • 多くの教会やシナゴーグ(ユダヤ教の会堂)の礼拝の最後でしばしば繰り返されている『アロンの祝祷』では神の御顔という言葉が頻繁に繰り返されている。(民数6章24~26節)。この祝祷では「祝福を受ける者の上に、神が“御顔”を照らしてくださるように」と祈っている。
  • 「主が御顔をあなたに照らされますように」というフレーズは、ユダヤ的な表現である。これは「主があなたの方に振り向き、再び注意を払う」という意味がある。しかし、なぜ御顔なのか。聖書ではというイメージをどのように用いているのだろうか。
  • はその人がだれであるかを示す。顔を見て初めて、だれであるかがはっきりとわかります。ときには後ろ姿や髪型、服装や歩き方などで判断することができるが、本当にだれであるかを知るのは、その人があなたの方を振り向いたときである。
  • 顔つき(顔の表情)は、私たちがどのような者であるかということに関係し、私たちの感情、ムード、性質など、内面で起こっていることを反映する。箴言には「心に喜びがあれば顔色を良くする。」(15章13節)とあるように、幸せなときにはその人の顔は輝き、逆に、悪いことをしたときにはこわばった表情になる。カッとなったり、怒りを表した顔もあれば、悪巧みのない内面の無垢な心を表す優しい顔もある。つまり、内側にあるものが顔に映し出されるのである。
  • 「主が御顔をあなたに向けられますように」というフレーズは、微笑みをもって“顔を上げた”ことを意味している。これは神があなたとの友情を表わす表現である。主はいつでも、どこでも、どんなときも、微笑みをもって御顔を私たちに向けておられるのである。ただ私たちの側が、自らの犯した罪のゆえに、「主の御顔を避けて」いるにすぎない。神はご自身の御顔を避けて生きる私たちに、キリストを通して、「顔と顔を合わせた」交わりを回復してくださったのである。黙示録の22章4節にある「神の御顔を仰ぎ見る」とは、神との永遠の友情の中に生きることを意味する。

2. 神の御顔を仰ぎ見、慕い求めた模範者たち

  • 賛美歌の中にこんな詩がある。

聖なる主の御顔を仰ぎ見つめれば 
すべては輝きに包まれます
あなたをあがめます 
主に生かされているから

  • 神の御顔を仰ぎ見る」こと、主の御顔、そのきよさ、その麗しさをじっと見つめるとき、私たちを囲むすべてのものは、主の光の中で色あせてしまうだけでなく、主は御顔を私たちの上に輝かせて下さり、私たちも輝くのである。「彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。」(詩篇34篇5節)とあるように。
  • ダビデは、「私はひとつのことを主に願った。・・私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。」(詩篇27篇4節)と述べている。ダビデは、主の家で礼拝すること、徹夜で祈り抜いて朝を迎えること。主の美、麗しさを仰ぎ見ることと黙想すること。敵との戦いや苦しみは後ろに退き、ただ主との交わりに没入する中で、主からの御声を聴いた。そして8節、彼は自分の心に向かって、主は言われる。「わたしの顔を尋ね求めよ」と語り、自らも「主よ、わたしは御顔を尋ね求めます」と誓っている。礼拝において求められることは、主の御顔の臨在である。御顔を見ることこそ礼拝なのである。主の麗しさを仰ぎ見、限りない優しさと慰めに満ちた御顔。そうした主の御顔を仰ぎ見ることが出来るなら、すべてのものが色あせたものとなる。それゆえ、私たちはダビデのように、「主よ、鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぎます」(詩篇42篇1節)、「私はあなたの御顔を慕い求めます」と言おう。
  • ダビデのみならず、世々の聖徒たちの中にも、主の御顔を仰ぎ見た者たちは多い。
    たとえば、

(1)ヤコブ
彼はヤボクの渡しである人と夜明けまで格闘したとき、「私は顔と顔とを合わせて神を見た」(創世記32章30節)と語っている。このペニエル(神の御顔を意味する)経験を通して、ヤコブの生涯はまったく変えられ、自分中心から神中心の生き方、祝福を奪う者から、祝福を与える者へと変えられたのである。

(2)モーセ
「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼を主は、顔と顔とを合わせて選び出された」(申命記3章10節)とある。モーセはこの経験によって、彼はイスラエルの民に主のことばを語り、様々な困難な状況や民のたちの反逆の中にあっても彼らを導くことができた。そして主の権威とそのみわざをあかししたのである。

「顔と顔を合わせた」交わりを通して神の栄光が輝き始める。このことは、私たちは罪の贖いを経験した後、さらに一段高いレベルヘと進む必要があることを教えている。神は私たちを、ただ罪から自由にするためだけに贖われたのではない。神は、私たちが神との親しい交わりを持ち、顔と顔とを合わせて神を知るために、私たちをキリストを通して新しく創造された。それが完全に実現する神の時に向かって、私たちは信仰の旅をし続けているのである。

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