****** 詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。******

神の父性的教育(2)

第25日 「神の父性的教育」(2) 

神のきよさにあずかる訓練とは

はじめに

  • 今回の主題は、前回取り上げた神の父性的教育(父性的訓練)についての第二弾です。クリスチャンになったら、神の子になったら、なんの問題もなく過ごせるというようなことは幻想です。そのようなことは決してありません。もしそう思って信仰の道に入ったなら、遅かれ、早かれ、信仰の道から逸脱することは目に見えているのです。私たちの父なる神は子となった私たちを、むしろ、次から次へと新たな課題を与えて訓練し、神の子どもとして成長させていくのです。そのことを再度、確認し、そうしてくださる神をますます求めて行きたく思います。
  • テキストはヘブル人への手紙の12章10節のことばです。

10 肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。

  • この節では、肉親の父と霊の父が対比されています。血のつながった父親は、当然のように、自分の子を懲らしめる(つまり訓練する)ということが前提となって語られています。しかし、このような前提は父権というものが確立されている時代のことです。現代はそういう父権があってないような時代なのです。父親なき時代です。「いいえ、家には父親がおります。」と言うかもしれませんが、そういう意味ではなく、父権というものがよく分からなくなってしまった時代、父権を発揮すればしんどく、疲れる時代なのです。父性が弱い家庭に育った子はいじめに遭いやすいと言われています。
  • 父権、すなわち、父の役割とは、責任を持って、家族を統合させ(まとめ上げる能力)、理念をかかげ、社会のルールを教えて、かじ取りをしていくことにあります。それゆえ、子どもに対してもある厳しさをもって養育します。子に対して何の口出しもしない優しい父親というのは、ある意味で、父権の役割を果たしていないと言えます。教会においても父権は必要です。特に、牧師、あるいはリーダー的存在となるべき人はこの父権が必要です。理念をはっきりとかかげ、それを伝え、そこに生きるように促し、どうすればいいのかを具体的に指導できる存在です。何の理念もなく、何の信念もない家族には、母性はあっても、父権というものがありません。家庭においても、社会においても父権は必要不可欠なのです。
  • とはいえ、すばらしい父権が、家庭、あるいはひとつの団体(学校、社会、教会など)で発揮されていたとしても、その基準となるものは、「自分が良いと思うままに」でしかありません。「自分が良いと思う」とは、限られた経験と限られた知識に基づいたものでしかないということです。それでもないよりはいい。それに自信がない父親ほど家で威張りちらすというようなことが起こり得ます。独善的な権威をもった父権ではなく、健全な権威を備えた父がいつの時代にも必要なのです。
  • さて、私たちの神は父なる神と呼ばれます。母性を深く秘めつつ父性の権威を持った方です。この「霊の父」、すなわち神の父権は、
    より高いレベルをもって、子である者たちにかかわります。もちろん、肉の父親と同様、ご自分の子どもに対して益となるためのいろいろな訓練を施すわけですが、その目的は「ご自分の聖にあずからせるため」と書かれていることに注目しましょう。
  • そもそも「ご自分の聖にあずからせる」とはどういうことなのでしょうか。これが私の頭を悩ませている問いです。自分への問いかけ、突っ込みのゆえに苦しんでいるのです。この「ご自分の聖にあずからせる」ということばは、簡単には片付けられない内容をもっているように思うからです。

1. 霊の父の訓練の目的を悟り、「まっすぐにせよ」!!

  • その問いかけ(突っ込み)に入って行く前に、私たちが、今の段階で、できる限り、神とのかかわりを正しいものにしておく必要があります。あるいは、正しいかかわりをしていこうという決断が必要です。もし今、それができなければ、この先もできないからです。
  • ヘブル人への手紙の著者は、霊の父親である神が、愛するゆえに、子どもに訓練を与えることを述べていきますが、手紙を受け取った人々の中には、神の訓練を訓練と受け取らずに、間違った対処の仕方によって信仰の歩みから離れて行った者たちが少なくなかったのです。愛すべき子たちに対してなされる神のすべての訓練は、決して喜ばしいものではない、気持ちいいものではないと記されています。むしろ、かえって悲しく思え、傷つけられたと感じるものです。しかし、あとになれば、それが自分の益となり、神の聖にあずかっている自分を見出すのです。
  • ですから、作者は、「自分が傷つけられた」と思っている者に対して、次のように戒めています。
    12「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい(アノルソー)
    13 「また、あなたがたの足のためには、まっすぐな(オルソス)道を作りなさい。足なえの人も関節をはずすことのないため、いやむしろ、いやされるためです。」
  • 12節、13節にある「まっすぐに」、「まっすぐな」という言葉がとても印象的です。どういう意味でしょうか。「まっすぐに」と訳されたギリシャ語は「アノルソー」(ἀνορθόω)と言って、新約聖書では3回しか出てこないことばですが、本来の意味は「伸ばす」という意味です。どんな箇所に出てくるかと言いますと、18年間、病の霊につかれて腰がまがり、全く伸ばすことができなかった女性に対して、イエスが手を置かれると、たちどころに腰が伸びたという記事がルカ13章であります。「曲がっていた腰が伸びた」という言葉が「アノルソー」です。13節の「まっすぐな」とな訳されたことばも「オルソー」と言って、親戚に当ることばです。
  • もうひとつの箇所は使徒15章でエルサレム会議の席上、議長のヤコブが預言を引用した箇所に、「わたし(神)は帰って来て、倒れた幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、ダビデの幕屋を元どおりにする。」・・ここの「元通りにする」「元通りに回復する」ということばが「伸ばす、まっすぐにする」という言葉が使われています。
  • ヘブル人への手紙の作者は、神の訓練の中にある者たちに対して、あるいはそこを通過した者たちに対しても、今一度、神との関係を「元通りに回復し、まっすぐになるように」と戒めているのです。自分が「傷ついた」「傷つけられた」と思うような経験の中にこそ、神が愛する者たちを「神の聖にあずからせようとして」なさったことだとして、正しく受け止める必要があることを示唆しているのです。
  • 神の訓練(懲らしめ)は、自動的に、私たちに益をもたらすものではありません。神の懲らしめによって益がその人にもたらされるかどうかは、私たちの側でそのことに対する正しい態度を取るかどうかにかかっているのです。だれかれが私にどうしたという問題のレベルで終わっているならば、益は何らもたらされません。もし、私たちが神のみこころから外れて誤った受け取りをするならば、信仰の歩みからはずれていく可能性もあるのです。ないしは、信仰の成長が止まってしまう可能性があるという警告です。
  • 「弱った手と衰えたひざとを、まっすぐにしなさい。また、あなたがたの足のためには、まっすぐな(オルソス)道を作りなさい。」 このことばを正しく受け止め、自分に向かって、神とのかかわりが「まっすぐ」であるかを点検し、そのようにする必要があるのです。
  • このように、「まっすぐにする」とは、第一に、神の訓練を正しく受け止めること、そして第二は、悔い改めて、神とのかかわりを回復することです。
  • 18年間、腰の曲がった女のように、長い間、神の訓練で会ったことを正しく受け止めなかった者に対して、ここでもう一度、主がふれてくださって、「元通りにせよ」と悔い改めを迫っているのです。神の側にはなんら非はなく、自分を傷つけた者も、神の視点からもう一度、静かに、見直してみる必要があるのです。そうするならば、自分を傷つけた相手が不思議と愛すべき敵、神が私の益のために用いた道具として見えてきます。
  • 「燃え尽き症候群」ということばを聞いたことがあるでしょうか。一生懸命やっている人が、ある時から、なにもすることができなくなってしまうのです。聖書の中にも、そうした人物がいます。預言者のエリヤがそうでした。異教の神と極限的な戦いで勝利した後で、敵の元締めであったイゼベルという王妃がなんら変わっていないことを知ったエリヤは、燃え尽きてなにもできなくなりました。
  • 特に、主のために頑張っている牧師や伝道者の中にも、そうした経験に近いことが少なからずあるのではないかと思います。頑張ることをしない人は、燃え尽きることは決してありません。燃え尽きた者の特徴は、エリヤもそうだったのですが、自己憐憫に陥ることです。自分だけが頑張ってきたのに、何も依然として変わっていない、私のあの努力、頑張りはいったいなんだったのか、と自分を悲劇の主人公のように思ってしまうのです。そして、自己憐憫の罪に陥ります。
  • 自己憐憫の罪―これはやっかいな罪です。それはなかなか自分で罪だと認められないからです。この自己憐憫の罪は、私たちが神の懲らしめを必要とする罪人であるという事実を認めようとしないことにあります。自己憐憫に陥る人は、自分が神に懲らしめられていること、自分が神に訓練されていることに気がつかずに、不平をもらし、自分と神との間に壁を作り、自分の罪に正面から向き合うことをしなくなってしまいます。いうなれば、自己憐憫の罪は自己中心的な罪なのです。自分は神からの訓練を多く必要としている者だということを認めることなしに、この自己憐憫の罪から解放されることはありません。

2. 神の聖さにあずからせるための訓練とは・・

注目すべき二つのことば(1, 4節)

  • 私たちは実に多くの神の訓練を必要としているのではないでしょうか。そのことを認める者は幸いです。霊の父の訓練は、肉の父親以上の方ですから、その訓練のレベルは同じではないはずです。もっとレベルの高いものだということは容易にうなずけます。肉親の父のレベルをはるかに凌ぐ方でなければなりません。つまり、訓練が厳しいと感じられなければならないのです。というのは、神との私たちのかかわりを妨げるパン種(ふくらし粉)が、多く、そして私たちの心の奥深くに潜んでいるからなのです。
  • ヘブル書12章でこれまであまり目を留めなかった部分に、今回は注目したいと思います。それは、へブル書12:1節、4節です。ゆっくりと読んでみましょう。信仰のレースを走る上で、「まつわりつく罪を捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」ということばが12章1節にあります。また「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と4節でも記されているのです。実は、この流れの中に神の訓練のことが語られているのです。
  • つまり、言わんとすることはこうです。
    霊の父は、私たちが「まつわりつく罪を捨てさせるために」訓練(懲らしめ)を与えるということです。霊の父は、私たちが「罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがないので」訓練するということです。この「まつわりつく罪を捨てさせる」「罪と戦って、血を流すまで抵抗する」という二つのことばを外して、今回の主題である神の「きよさにあずからせる」というみことばを解くことはできません。つまり、そのみことばを正しく理解することができません。「まつわりつく罪を捨てさせる」「罪と戦って、血を流すまで抵抗する」ことがどういうことかを、問わなければならないのです。
  • たとえばもし、私たちが、あることが思ったように運ばない時、あるいは人に自分の気にさわるようなことを言われた時、怒りっぽく反応することはないでしょうか。別にそれが悪いことだと思わず、当然の反応だともし思っているならば、霊の父は「ご自分のきよさにあずからせるために」、何度も同じようなことを経験させるはずです。
  • この罪の問題に鋭く光が当てられるような訓練を御父から受けていないとすれば、あなたは真の神の子どもとはいえないかもしれません。霊的に目覚めるとは、自分がもしかしたら、砂上の楼、つまり―砂の上に楼閣を築いているかもしれないと気づくことです。そのことに気づくために、神は今も愛する者を、自分の罪に気づかせ、それを捨てさせ、罪と戦うことができるように懲らしめるのです。
  • 果たして、こんな父性の役割を果たしてくれる方がこの世にいるでしょうか。この世の父は「自分が良いと思うままに」懲らしめますが、霊の父は、「私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、徹底的に懲らしめるのです。」 それはとりもなおさず、「私たちの益のため」なのです。父の子に対する愛のあかしなのです。御子イエスに対する御父はそのモデルです。
  • 「神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うすることは、万物の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことだったのです。」このみことばには深い意味が隠されていると思います。人間の背後で罪の中にいる私を喜んでいるサタンに対して、その力から私たちを救い出す方は、罪との戦いと無縁な方ではありえません。御父は御子を天から遣わし、この世の罪にまみれたただ中に置くことによって、その戦いに勝利することを求められました。キリストにある私たちも罪との戦いから解放されたわけではありません。「まつわりつく罪を捨てさせ」「その罪と戦って抵抗する」課題があるのです。この戦いに立ち向かうことができるために、御父は私たちを訓練されます。
  • 現代のバシリア・シュリンクという女預言者は、『変えられたいあなたに』という本で、鋭く、人間の内に潜む罪に光を当てています。主イエス・キリストの十字架の血潮がなければとてもとても見つめることができない罪ばかりです。

1. 無頓着・なまぬるさの罪 / 2. 立腹・いらだち・怒りの罪 / 3. 利己主義・けちの罪 / 4. 抑圧・ゆううつの罪 / 5. ぼんやり・空想の罪 / 6. 不信・不信仰・落胆の罪 / 7. 不和・苦々しい思いの罪 / 8. 不従順の罪 / 9. ひやかし・あざけりの罪 / 10. 批判・さばきの罪 / 11. 人の関心をひき、認められたいという願いの罪 /
12. おしゃべりの罪―人の関心と注目を引きたいという願いがその根にあります。ですから、すでにイエスから引き離されているのです。おしゃべり好きの人はイエスとの交わりが希薄になっている証拠です。主との交わりが希薄であればあるほどおしゃべりがしたくなるのがこの罪です。 /13. 卑怯の罪 / 14. 反抗の罪 / 15. 妬み・嫉妬の罪 / 16. 肉欲の罪 / 17. 短気の罪 / 18. 軟弱・怠惰・安逸な心・無気力の罪 / 19. 貪欲・むさぼりの罪 / 20. 多忙の罪 / 21. 情け知らず・愛の欠如・あわれみの心の欠如の罪 / 22. 高ぶり・傲慢の罪 /23. 独善・自己正当化の罪 / 24. 中傷・ゴシップの罪 / 25. 尊敬の欠如の罪 / 26. 詮索の罪/ 27. 十字架・苦しみを避けようとする思いの罪 / 28. 神経過敏の罪 / 29. 思い煩いの罪 /30. この世への愛と隷属の罪 / 31. 分裂をもたらす口論の罪 / 32. 権力欲・支配欲の罪 /31. 偽善・ごまかしの罪 / 32. 我意・わがままの罪 / 33. 感謝の念の欠如の罪 / 34. エゴイズム・自己中心の罪 / 35. うぬぼれ・虚栄心の罪 36. 嘘・虚偽・隠し事の罪 /


おわりに

  • 私たちの信仰が砂上の楼閣とならないために、今回の12章1節と4節にあるみことばを今朝、心に刻みつけましょう。
  • 聖霊は私たちに神との間に障害となっているものを、不必要なものを取り除くべく教えてくださいます。ゆっくりと自己を見直し、聖霊の導きに従うなら、私は神にあって新しくされたものだという意識がより鮮明になってくるものと信じます。自分がクリスチャンなのかどうかわからなくなるときは、すでに神の訓練の中にあります。神は障害となっているものを私たちに気づかせようとしておられます。自分の信仰がどこか違っているのではないかと思わせます。その気づきから訓練ははじまります。聖霊様は紳士な方なので、強引で、強制的なやり方ではなく、私たちが気づいて認め、新しくなることを助けてくださいます。
  • 紳士な方だからといってそれに胡坐をかいていると、サタンが喜びはじめます。聖霊様が真に紳士な方なのは私たちが弱い存在だからです。人には優しく、しかし自分には厳しくあることからはじめて行きましょう。
  • ひとたび私たちの「心」が神のみことばによってきよめられ始めるならば、心に「楽しみ」が湧き出し、人生に新しい喜びと力が与えられるのです。
  • 罪との戦いを決定するのは一回一回の勝利や失敗ではなく信仰による忍耐です。ですから「まつわりつく罪を捨てて、私たちの前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」と12章1節にあります。「忍耐をもって、走り続けること」、つまり、信仰によって戦い続けることが求められています。そのようにして罪による要塞は崩され、罪の鎖から解き放たれることができるのです。そのことを信じましょう。


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