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神への献身

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2. 神への献身

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はじめに

  • ローマ人への手紙12章から新たな段階に入ります。1節を見ると「そういうわけですから」という接続詞によって始まっています。これは1章から8章において展開された、神がその恵みによって私たち人間に提供された救いが前提となっています。つまり、こんなにもすばらしい救いをあなたがたは神からいただいたのですから、私(パウロ)は今主にあるあなたがたにお願いするのです、という流れになっています。
  • 1章から8章まで、神が御子イェシュアを通して、私たちにもたらしてくださった幸いなおとずれ、福音とは何であるかを記しています。いわば教理と言われる部分です。大きく三つのことが語られています。
    第一は、この世にはひとりとして義人はいないということです。ユダヤ人もギリシア人も、すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないという事実です。
    第二は、そのような罪の下にある者が、律法、すなわち行ないによって義とされる道とは別の義、すなわち、イェシュア・メシアを信じる信仰による神の義であり、すべての信じる人に与えられるということです。これは神の恵みによることであって、イェシュアの贖い(身代わりの死)のゆえに、価なしに認められる義です。
    第三は、神によって義とされた者が、御霊の助けによって勝利の人生を歩むことができるということです。
  • 大きな視点で見るなら、これら三つのことについて語られていました。ところで、12章以降において扱われている内容は、神の恵みによって救いにあずかった者が、神との関係において、また信者同志の関係において、また信者と未信者との関係において、具体的にどのようなかかわりを持って生きるかということです。特に、今回取り上げる12章1~2節は、神の救いにあずかったクリスチャン生活の基盤となるべき箇所です。

【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙12章1~2節
1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

【新共同訳】ローマ12章1~2節
1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。
2 あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

  • 1~2節を以下の三つのポイントで、順に考えていきたいと思います。

(1) あなたがたのからだを神にささげるということ。
(2) この世と調子を合わせてはならないということ。継続的に
(3) 心の一新によって自分を変えられるということ。継続的に

1. あなたがたのからだを神にささげよ(恵みによる献身=霊的な礼拝)

  • 1節で、パウロは「神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします」と言っています。私たちはかつて救われる前は、神に敵対し、神に逆らって生きていました。そのような者が神のあわれみを受ける者とされたのです。それは全く受けるに値しない者に対する神の一方的な愛です。その愛を無にしないためにも、人からの命令でも、強制でもなく、自発的に、神の愛と恵みに感謝する生活に入っていくようにとパウロは勧めたのです。
  • 神の愛、神の恵みが分かるならば、その人は黙っていても神に従っていくことができます。しかし反対に、神の愛と恵みが分からないならば、どんなに命令したり、説得したりしたとしても、神に従って行くことは難しいと言えます。ですからこの12章1節は、神の恵みを知ったクリスチャンに対して勧められているのです。クリスチャンのなすすべてのこと、生きることのすべてが、実は「神に対する感謝のわざ」となるのですが、その感謝のわざの最も基本的な(最も大切な)ことが、「自分自身のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげる」ということなのです。なぜなら、それが「霊的な礼拝」であるからです。
  • この「霊的な」(ギリシア語の形容詞「ロギコス」λογικός)ということばは、「当然」「理にかなった」「心のこもった」「考え抜かれた」とも訳せることばです。自分のからだをささげるということは、当然のこと、神の愛と恵みにあずかった者として自分のからだをささげるということは、あまりに当然のこと、当然すぎるということです。身をささげる、つまり「献身」というと、何かおおげさなことのように思われますが、それは当然のことであり、クリスチャンのすべてがなすべきことなのです。とすれば、「礼拝厳守」とか、「礼拝を守る」という言い方はどうなのでしょうか。私自身も、礼拝が終わると、「今週も礼拝をしっかりと守ることができた」と言って自己満足していました。しかしある時期から、礼拝とは「守ることではなく、ささげることだ」と気づかされてから、「礼拝を守る」という言い方をしなくなりました。
  • 新約聖書において、「礼拝」と訳されていることばは二つあります。いずれも、神に対して尊敬や敬意をあらわすこと、感謝をささげること、神に誉れを帰すことという意味で、そこからは「与える」「ささげる」という意味合いがあります。ところが、私たちはしばしば誤った考え方を抱くのです。というのは、礼拝において何かを得ようとか、何かを求めるという考え方です。この考え方を私は改めました。礼拝とは神に求めることではなく、私たちが神にささげる事なのです。これは非常に大切な認識であると思います。そうでないと、今日の説教は恵まれなかったとか、わからなかった、ということで、いつも何か得ることばかり考えるようになるからです。自分が心から神にささげたかどうか、心から賛美をささげたかどうか、神に誉れと栄光をささげたかどうか、それが問われているからです。
  • マタイの福音書の2章で、東方の博士たちが生まれたばかりの救い主を訪ねて、はるばる遠くから旅をしてやって来ました。何の目的のためでしょうか。それは礼拝するためです。彼らが危険を犯しながら、時と犠牲を払ってやって来たのは、神から遣わされた幼子を礼拝し、メシアなる王としてふさわしいものをささげるためでした。彼らはそこで行き当たりばったりささげたのではなく、あらかじめきちんとささげるべきものを準備してやって来たのです。これが礼拝です。彼らは受けるためにやってきたのではありません。ささげるためにやってきたのです。
  • ヨハネの福音書12章にも、マリアという女性がイェシュアのもとにやって来ました。何のために来たのでしょうか。話を聞くために来たのでしょうか。あるいは自分の話を聞いてもらうためでしょうか。いいえ違います。「ささげるため」です。彼女は高価なナルドの香油をイェシュアの足に塗るために来たのでした。それは彼女にとって不要なものとなったものをささげたのではありません。むしろ、それは彼女にとって最も大切なものであったはずです。そうすることで、彼女は主に対する感謝の気持ちを表したのです。
    「ささげるために」・・・ここに礼拝の本質を見ることができます。
  • ところで、使徒パウロが「あなたがたのからだをささげる」という場合、どういうことを意味しているのでしょうか。

(1) 自分自身をささげる

  • 「あなたがたのからだ」とは、自分自身をささげることです。自分のいのち、自分の人生、自分の肉体そのものです。主にあるクリスチャンは、自分のからだは自分自身のものではなく、聖霊の宮であるということを知っているはずです。かつては罪の道具であった私たちのからだは、今は主の道具として用いられ、主の栄光を現わすために役立てられなければなりません。

【新改訳改訂第3版】Ⅰコリント 6章19~20節
19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

  • 上記のみことばにあるように、私たちのからだはもはや自分自身のものではないのです。代価を払って買い取られたのです。ですから、私たちのからだを神のもの(所有)として、大切に管理する責任があります。主はご自身の民であるイスラエルに対して、「わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの」(イザヤ43:1)と言っておられます。とすれば、主を信じる私たちに対しても同様に、「あなたはわたしのもの」として贖われた存在であり、主の所有とされたのです。とすれば、私たちの日々の生活のすべては主にささげられたものでなければなりません。つまり、一瞬一瞬が、主に対して備えられ、主の求めに応じていつでも応えられる状態にあることを主は望んでおられるのです。気持ちだけが礼拝に来て、からだがそこにないというのは、幽霊のようです。気持ちだけでは神の栄光を現わせません。気持ちとともにからだがそこになければならないのです。神の栄光を現わすためには器が必要です。からだが必要なのです。

(2) 心をささげる

  • 主は私たちのからだだけでなく、心をも要求しておられます。実際の礼拝で、私たちのからだが礼拝堂の椅子にあったとしても、心はどうでしょうか。心が別の世界に遊んでいて、別のことを考えているということがあります。それは心をささげているとは言えません。私たちにとって心はからだ以上に大切な部分です。なぜなら、私たちは心の中で罪を犯し、心の中で思ったり考えたりしていることを行動に表すからです。したがって心が主に占領されていなければ、心が主に集中しているのでなければ、礼拝をささげているとは言えないのです。
  • その他、自分の時間をささげること、自分自身のくちびるを用いて賛美といういけにえをささげるとか、自分に与えられている賜物(能力)を主のためにささげるとか、また財を献金としてささげるとかいうのも、すべて「あなたがたのからだを・・ささげる」ということに括られるのです。礼拝の時になぜ献金するのでしょうか。それは献身の表現だからです。旧約時代の人々は、「全焼のいけにえ」と言って、牛とか羊とか、それをささげることのできない貧しい人は鳩をささげたようです。ただし、ささげものに傷があったり、汚れたものであったりしてはなりませんでした。自分にとっていらなくなったものをささげるというのは、真の礼拝からほど遠い行為であり、神を侮辱する行為と言えます。むしろ自分にとって多少身の痛む程度のものが良いのです。なぜなら、それこそが価値あるものであり、生きた供え物となるからです。
  • オウム真理教の教祖である麻原彰晃が、その教団のビデオの中でこんなことを言っていました。
    「ある人が、不正によって得たお金を盗んで、それをそっくりお金に困っている人や良いことのために使うことは善であるか、悪であるか。」・・・この設問に対して、教祖は最高の善であると説いているのを聞きました。お布施のためにならどんなことをしてもよい、いやむしろ最高の善だと教えていたのです。
    あなたはどう思いますか。神への献金のためなら、どんなお金でも良いと思いますか。聖書は神に受け入れられるものでなければならないとしています。

2. この世と調子を合わせてはならないこと

  • すべてを主にささげた人であるならば、この二番目の勧めはたやすく理解できるはずです。クリスチャンはこの世の価値観に妥協してはならないということです。この世のならわしやしきたり、流行から自らを聖別しなければならないのです。「世を愛する」ことについて、聖書は次のように諭しています。

【新改訳改訂第3版】ヤコブ書4章4節
貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

【新改訳改訂第3版】Ⅰヨハネの手紙2章15節
世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

  • この「世」に対して明確な態度を取ることができず、徹底してイェシュアの側に立つことをしないならば、次第にこの世になじんだ者となってしまいます。聖書において「世」を象徴するエジプトから解放されるには、神の力が働かなければならなかったことを想起しましょう。ですから、「世」の力を決して甘くみてはなりません。もし、この世を愛する者となってしまうなら、その結果として、以下のようなことになってしまいます。

第一に、必ず「思い煩い」に陥ります。イェシュアが「神の国とその義とをまず第一に求めなさい」と約束しているにもかかわらず、この世の心遣いのために思い煩うようになり、心配が絶えなくなります。
第二は、自分のことだけを考えるようになります。自分の利益にならないことはしないという生き方です。この生き方は神の栄光を現わすことからほど遠くなります。
第三は、主のことを思うのではなく、他人の財産や人がどう考えるかが気になり、主のみこころよりも、自分の気持ちに支配されていくようになります。その結果、ねたみによる争いごとに巻き込まれていきます。

  • この世の神はサタンです。快楽を求める心、自己中心、所有欲、名誉心など・・これらはすべてこの世的な生き方に属するものです。使徒パウロは、このような世と調子を合わせてはならない、くびきを負うようなことがあってはならないと命じているのです。

3. 心の一新によって自分を変えること(心の刷新を図る)

  • 「世と調子を合わせてはならない、妥協してはならない」という表現は消極的な表現ですが、それを積極的な表現にすると、「心の一新によって自分を変える」ということになります。これは私たちのうちにおられる御霊のなせるわざです。御霊は私たちの心のうちにそのような思いを与えられるのです。こんな自分ではいけない、神の国に入れられた者として、それにふさわしく生きようという心の刷新がもたらされるのは、私たちの生来の力ではなく、御霊からのものなのです。この心の刷新によって、神の世界はより開かれていくのです。
  • もし、私たちのうちに、ある種の心のけじめがつくと、それは外側の生活にまでも変化が見られるようになるのは言うまでもありません。そして「神のみこころは何か、何が良いことで神に受け入れられ、完全であるかをわきまえることができる」ようになってくるのです。神のみこころを知るのは御霊の助けが不可欠です。その御霊の助けに頼るなら、霊的な知恵と理解力が成長するのです。
  • それゆえ、私たちは「心を一新する」ことに心を留意することです。心を新たにするのは御霊なる神です。この「造り変える」ということばは、毛虫が蝶に変わるようなニュアンスを意味しています。神はその信仰をことのほか喜ばれます。なぜなら神は、私たちの行いではなく、信仰を喜ばれるからです。やがて完成される御国おいてはすべての者の心とからだが御霊によって新しくされ、真の礼拝者とされることが定まっているのです。それが神のご計画の究極的な完成なのです。神への献身は、その信仰に支えられるべきではないでしょうか。


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