****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

祭司の務めを担う者の歩み

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73. 祭司の務めを担う者の歩み

【聖書箇所】マタイの福音書16章24~27節

ベレーシート

●前回のメッセージにおいて、私は以下のように書き記しました。少し簡略して引用したいと思います。

「神のかたちに創造された人に与えられた務めは「祭司としての務め」です。祭司としての務めとは、神とともに歩み、神のみこころを知る務めです。そして神のうちにあるいのちを分け与えるという務めです。この務めを回復するために、神の御子イェシュアは「多くの苦しみと死と復活」というご自分にしかでき得ない神の定めをなさってくださったのです。それはすべての人のための完全な贖罪(罪の身代わりとしての死)を決定的(一回的)に成し遂げることでした。多くの苦しみと死を経験しなければならないにもかかわらず、それを私たちのために見合うこととして味わってくださったのです。・・その意味では、キリストを信じて「クリスチャン」になるというよりも、「祭司の務めを回復された者」という言い方のほうがずっと重みがあり、新しく生まれた意味と目的が深く自覚されます。この祭司の務めはとても霊的なものであり、聖なるものです。ペテロはこの点を強調して、キリストにある新しい神の民を、「聖なる祭司」「王なる祭司」と表現したことを、私たちは改めて考えてみる必要があるのではないでしょうか。この「祭司の務め」を担う者のあり方を、イェシュアは以下のようなことばで述べています。

【新改訳2017】マタイの福音書16章24節
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。

・・このことについては、次回に学びたいと思います。」(引用終わり)


●そこで、今回のメッセージのタイトルを「弟子の歩み」ではなく、「祭司の務めを担う者の歩み」としました。なぜなら、弟子とはイェシュアから学ぶ者のことであり、イェシュアとは神のかたちとして造られた最初の人アダムのオリジナルな姿(=最後の人)だからです。そして、その神のかたちとは、神とともに歩み、神のみこころを知り、神のうちにあるいのちを分け与えるという務めを与えられた祭司的存在だからです。その祭司的務めを担う者の歩みについて語っているのが、今回取り上げる16章24~27節の箇所なのです。しかしその箇所に入る前に、ペテロに対するイェシュアの叱責について目を通しておきたいと思います。なぜなら、イェシュアの叱責と「祭司の務めを担う者の歩み」というイェシュアの挑戦への招きとには、論理的なつながりがあるからです。

1. イェシュアの叱責の意味するところ

【新改訳2017】マタイの福音書16章21~23節
21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

●イェシュアがエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないという予告に対して、弟子の筆頭ペテロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」と言って、イェシュアをいさめ始めたとあります。おそらく他の弟子たちも同じ思いであったと思われます。なぜなら、イェシュアが切り出された話は「生ける神の子キリスト」の輝かしいイメージとは全くかけ離れた暗く恐ろしい話であって、彼らにとって理解しがたいことであったからです。しかしこの予告には、メシアであるイェシュアがどのように人間の贖いのわざを成し遂げ、完成されるのかという神のご計画が隠されていたのです。つまり、イェシュアの受難と死と復活は、人間の贖いのためになくてはならない神の必須な事柄(複数)だったのです。

●「なければならない」(「デイ」δεῖ)という表現は、それらの出来事の一切が神のご計画に基づいたものであり、必ず実現することを意味しています。特に「三日目によみがえる」の「よみがえる」は「眠りから起こす、死から起こす」という意味の「エゲイロー」(ἐγείρω)の受動態が使われており、それがイェシュア自身の力によるのではなく、神(御父)によってなされることであることが強調されています。こうした神の事柄をイェシュアが弟子たちに「示し始められた」という表現は、それがこれまで隠された奥義であったことを意味しています。

●ところが、ペテロはイェシュアを引き寄せて(わきにお連れして)、いさめ始めたのです。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」と。「いさめる」(「エピティマオー」ἐπιτιμάω)という語彙は、「たしなめる」「叱責する」「非難する」という意味です。それは、イェシュアに対する愛の思いから出たものか、イェシュアが受ける恥辱と虐待に対する恐れから出たものか、その両方からかもしれませんが、神からではなく、人間の思いからであることは間違いありません。

●新改訳2017では「とんでもないことです」と訳されており、口語訳、新共同訳、フランシスコ会訳もそのように訳しています。原語の「ヒレオース」(ἵλεως)が「神が憐れんでくださるように」という意味であるため、新改訳の改訂第3版までは「神の恵みがありますように」と訳されていました。それでは分かりにくいということで改訳されたと思われます。ところが、ぺテロの言動に対するイェシュアの言動は、振り向いて、つまりペテロを見据えて「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と痛烈に叱責された、そのように私はこれまで考えていました。「下がれ、サタン」は、ペテロにとってとても辛辣で、棘のあることばだと思い、重い感じを抱いていました。しかし今回、これは叱責というかたちをとったイェシュアのユーモアだと考えるように至りました。

●理由はこうです。16章23節の「下がれ、サタン」ということば、これと同じことばがマタイの福音書4章10節にあります。荒野の誘惑で、サタンに対してイェシュアが発したことばです。それと全く同じことばとして訳されているのです。ところが原文を見ると少し異なります。4章では「ヒュパゲー・サタナ」(Υπαγε, Σατανᾶ)となっているのに対し、16章23節の原文では「ヒュパゲー・オピソー・ムー・サタナ」(Υπαγε ὀπίσω μου, Σατανᾶ)となっていることです。「オピソー・ムー」(ὀπίσω μου)とは「わたしの後ろに」という意味です。つまり、16章23節は「わたしの後ろに下がれ、サタン」となっていることです。英語訳(ESV)でも訳は異なっており、4章の「下がれ、サタン」の場合はBe gone,Satan!、16章の「下がれ、サタン」の場合はGet behind me!となっています。

●さらに、「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ」というフレーズです。「サタン」ということばの後に「あなたは、わたしをつまずかせるものだ」は、以前は「邪魔をするものだ」(改訂第三版)でしたが、新改訳2017では「つまずかせるものだ」に改訂されています。原語は「スカンダロン」(σκάνδαλον)ですから、「つまずかせるもの」の方が適訳なのですが、このことを言っている相手はペテロです。「ペテロ」という名前は「小石」を意味します。ちなみに、「この岩の上にわたしの教会を建てる」の「岩」は「ペトラ」で「大岩」を意味しますから、つまずくことはあり得ません。つまずくのは小石です。つまり、「つまずくもの」と「ペテロ」を掛けています。しかし、イェシュアがペテロの言動によってつまずくことはありません。なぜなら、神のご計画の定めはペテロの言動では決して変わらないからです。4章の方は「悪魔」に対して直接言ったのに対し、16章の方は「ぺテロ」に対して言ったことばです。悪魔の場合は立ち去りましたが、ペテロは立ち去ってはいません。とすれば、イェシュアの叱責の要点は、むしろ「わたしの後ろに下がれ」ということばにありそうです。この「わたしの後ろに下がれ」をどのように理解すればよいのでしょうか。

●二つの解釈が考えられます。ひとつの解釈は、「あなたは私が進む道に従ってくるべきであって、自分の行こうとする道に私を導くベきではない」という意味。この解釈だとすれば、ペテロを追放する意味とはならず、むしろペテロをイェシュアの後ろを歩く立場に導こうとすることばとなります。もう一つの解釈は、「わたしの後ろに引き下がれ」、すなわち、「もう一度わたしに従う者となれ」というものです。サタンは決してイェシュアに従うことはあり得ません。それがサタンの本質だからです。しかし失敗の多いペテロに対しては何度でもキリストに従うチャンスが与えられているのです。一時はサタンがペテロを介して誘惑して来たけれども、それはペテロの本心ではないことはイェシュアが一番ご存じです。「わたしの後ろに下がりなさい、わたしの従者となりなさい」、今のあなたは、わたしをつまずかせる(邪魔する)ものだとしても、必ずや、将来、わたしの従者となるという預言的含みをもったことばだと解釈するなら、「主の憐れみがありますように」という意味の「とんでもないことです」というフレーズは、神のユーモアとして、まさにペテロに注がれている主の恵みのことだと言えます。そのように解釈することで、次のイェシュアの挑戦への招きと論理的につながってくるのです。

2. イェシュアの挑戦への招き

【新改訳2017】マタイの福音書16章24~27節
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25 自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

(1)「安価な恵み」と「高価な恵み」

●「安価な恵み」と「高価な恵み」。恵みに「安価」と「高価」があるのか、聖書のどこにそのようなことばがあるのかと思われる方もいるかもしれません。このことばを使っているのは、20世紀、ドイツのナチスと戦って殉教したフレードリッヒ・ボンヘッファーという神学者です。彼は『主に従う』という著書の中でそのことばを使っています。

●「安価な恵み」とは、投げ売りされた赦し、投げ売りされた慰め、投げ売りされた礼典(洗礼や聖餐)の恵みです。恵みの本質とはすでに永遠に勘定が支払われていることです。しかし、恵みはいただくけれども主に従うことは結構ですという人、それはその人にとって心の変化を伴わない、頭だけの、教理としての恵みであり、いわば十字架のないご利益的な恵みなのです。受けることだけを求めて、主に従うことをためらい、十字架を負うこともしようとしない、それが「安価な恵み」なのです。

●これに対して「高価な恵み」とは、主に従うことによって与えられる恵みを言います。それは聖化の恵みとも言われます。それはイェシュアのいう「自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従って行く」ことができる恵みなのです。

(2)「だれでもわたしについて来たいと思うなら」

●24節「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」ということばは、私たちに対するイェシュアの挑戦への招きのことばです。「だれでもわたしについて来たいと思うなら」(原文では「もしなら」という条件付きの接続詞)とあるように、イェシュアに「ついて行きたいと思わない」人には関係のない話です。しかし、「もしわたしについて来たいと思うなら」、例外なく「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と命じています。

●意図的なのか偶然なのか、はかりかねますが、太字で書かれた三つの言葉は以下のように、すべて「アルファ」(α)の頭文字で始まっています。

①「自分を捨てる」を意味する「アパルネオマイ」(παρνέομαι)。
②「自分の十字架を負う」(背負う)を意味する「アイロー」(αἴρω)。
③「主に従って行く」(主について行く)を意味する「アコリューセオー」(κολουθέω)。

●「自分を捨て」の「捨てる」と、「自分の十字架を負って」の「負う」という動詞はいずれもアオリスト命令形で、一回的な自発的・意志的決断を意味しています。その覚悟をもって「わたしに従って(ついて)来なさい」と命じているのです。「従って行く」は現在命令形で継続的であることを意味しています。この挑戦は、信じる者に与えられている御霊に従うときにのみ与えられるものであり、「高価な恵み」なのです。

●パウロは安価な恵みだけに甘んじている人のことを、「肉に属する人」「肉の人」「キリストにある幼子」「ただの人」と呼んでいます。反対に、「高価な恵み」にあずかっている人を「御霊に属する人」と呼んでいます(Ⅰコリント3章1~3節)。

●讃美歌332番、聖歌582番は、「高価な恵み」に生きる人の信仰を歌っています。聖書のみことばだけでなく、讃美歌、聖歌の歌詞をじっくりと味わって瞑想することは霊的生活に有効な方法です。

〔讃美歌332番〕
主はいのちを与えませり 主は血潮を流しませり
その死によりてぞ われは生きぬ
われは何をなして 主にむくいし

〔聖歌582番〕
1. 神の御子にますイエスのために、罪を敵として立つはたれぞ
(Ref)すべてを捨てて、従いまつらん 
わがすべてにます 王なる主イエスよ
2. 富の楽しみと地の位に、目もくれずイエスにつくはたれぞ (Ref)
3. 罪に捕らわれし魂をば イエスに連れ来たる有志はたれぞ (Ref)
4. わが持てるものは主よながもの きよき御戦さに用いたまえ(Ref)

●「高価な恵み」にあずかっている人は、自分のいのちを自分のためではなく、主にささげている人であることが分かります。次の25~27節のそれぞれの節に、24節のイェシュアのことばの理由を示す「ガル」(γάρ)があります。つまり、25~27節は24節の理由を示す説明句となっているということなのです。

(3) 失って見出す「いのち」

【新改訳2017】マタイ福音書16章25節
自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。

●25節は反意的パラレリズムです。「いのちを失う者」と「いのちを見出す者」の違いが何かを語っています。その違いとは「自分のため」か「わたしのため」かの違いです。「わたしのため」の「わたし」とはイェシュアのことです。イェシュアのために自分のいのちを失う者は自分のいのちを見出すのです。今の日本は信仰のために殉教することはありませんが、世界には今でも信仰を守り抜いて死に至る人がいます。身の安全のために信仰を捨てる人は、たとえ生存することはできても、生きる永遠のいのちを失います。

【新改訳2017】マタイ福音書16章26~27節  
26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。

●26節のことばは、25節の前半の部分「自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い」をさらに説明しています。自分のいのちを救おうとして、つまり自分の身を守るために全世界を手に入れたとしても、自分のいのち、つまり永遠のいのちを失うとすれば、何の益もないこと、しかもその永遠のいのちを買い戻すことは不可能であることが述べられています。なぜなら、いのちを買い戻すことができるのはイェシュアしかいないからです。自分のいのちを自分自身で救うことは不可能なのです。まさに、「空の空。すべては空」(伝道者の書1:2)の世界です。

●27節のことばは、25節の後半の部分「わたしのためにいのちを失う者はそれを見出す」ことをさらに説明しています。イェシュアのためにいのちを失った者がどのようにしていのちを見出すのかといえば、それは「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来る」こと、つまりキリストの再臨によって、人がイェシュアのためにどのように生きたか、その行いによって報いが与えられることで「いのちを見出す」ことができるのです。

ベアハリート

●今回の文脈の中で(28節は今回割愛します)最も重要な箇所は、24節の「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」というイェシュアの挑戦への招きのことばだと言えます。このことばは肉に属している者(霊的な幼子)には受け入れがたいものですが、神から与えられる御霊の助けに従うならば可能なのです。なぜなら、それは神が人間を創造された目的にかなっているからです。これは聖化の恵みとしてしばしば教えられていることです。要は、私たちが御霊に従おうとしているか否かです。私たちが「祭司としての務め」を担うことができるように、そして神の祝福を分かち合うことができるように、今も大祭司イェシュアが神の右の座でとりなしておられます。神の「高価な恵み」は、今も後にも、絶えずあるのですから、「自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」というイェシュアのことばに従いましょう。なぜなら、それはやがてキリストの再臨の時に報われる(=永遠のいのちを得る)と約束されているからです。

2020.3.15
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