私と私の家族とは主に仕える
【聖書順索引】
10. 私と私の家族とは主に仕える
【聖書箇所】ヨシュア記24章15節
【読み】
「アノーヒー ウーヴェティー ナヴォード エット アドナーイ」
【文法】
- 「デイリー・ブレッド」で初めて登場する「エート」אֵתは、実はとても不思議な語彙なのです。二つの文字から成っていますが、一つ目の文字はヘブル語のアルファベットの最初の文字である「アーレフ」אです。そしてもう一つの文字は、アルファベットの最後の文字である「ターヴ」תです。初めと終わりの文字によって成り立っているのです。何「
に」、誰「に」仕えるのかと言えば、それは「主」です。主の初めから終わりまで、すなわち「主」というお方とそのみこころ(ご計画)とその支配(統治)のすべてにおいて「仕える」のです。ちなみに、ヨハネの黙示録1章8節に「神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである。』」とありますが、この「アルファ」と「オメガ」はギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字です。אתにしても、AΩにしても、実に深い意味が隠されています。これからもこの「エート」אֵתが登場するときには、必ず目を留めて味わいたいものです。
【翻訳】
【新改訳改訂3】
私と私の家とは、【主】に仕える。
【口語訳】
わたしとわたしの家とは共に主に仕えます。
【新共同訳】
わたしとわたしの家は主に仕えます。
【NKJV】
As for me and my house, we will serve the Lord.
【瞑想】
単に「主に仕える」というだけでなく、15節にあるように、「私と私の家(家族)とは、主に仕える」という主体的・自覚的な信仰による取り組みが必要です。です。この取り組みがいかに大事業であるか、しかもそれがいかに緊急的な課題であるかを自覚しなければなりません。「私と私の家(家族)とは、主に仕える」という告白はヨシュア記の結論なのです。
アブラハム、イサク、ヤコブの子孫であるイスラエルの民たちは、この世に生まれた時から神の契約の子であり、神との特別な位置にありました。彼らが他の国の子よりも特別に有能で、優れているからではありません。神が選ばれた民の子であるゆえに、神とのかかわりにおいて特別な位置にあるのです。ですから、イスラエルの民は神によって与えられたトーラーに従って、神の民として教育される必要がありました。申命記6章6節以降には次のように語られています。
「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」(6:6~9)
ユダヤ人の教育では今日においても、5歳からトーラーを学び、12歳ではトーラーの解釈である「ミシュナー」を学びます。しかも膨大な神のことばを記憶するように教育されるのです。これは彼らが神の民として存続していくための在り方なのです。彼らの歴史において離散と迫害をくぐり抜けても尚、今日ユダヤ人として存続し得ているのは、神の守りがありますが、彼らが神のトーラーや伝統を世代を超えて継承してきたからです。
異邦人である私たちは、信仰の継承の課題を彼らから学ばなくてはなりません。特に、クリスチャンの第一世代の者は、身近に信仰継承のモデルとなる家庭が少ないために、その課題は困難な状況にあります。しかし神の恵みにより神の子とされたクリスチャンが、同じく神の子とされたクリスチャンとの結婚に導かれたなら、神の摂理のうちに、本人が自覚しようとしまいとその家庭には「信仰の継承という家族としての召し」が与えられているのだと信じます。
【付記】
2013.2. 24
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