私と詩篇のかかわり(パートⅡ)
私と詩篇のかかわり(パートⅡ)
- 詩篇を瞑想する「サムエル・ミニストリー」は、2001/12/3~7にもたれた空知太栄光キリスト教会の「弟子訓練プログラム」(当時は「モーセ五書」の学びをしていました。)を契機として、翌週の12/10からスタートしました。いわば自然発生的にはじまったのですが、それが今も続いています。
- それからというもの、毎週の定例の祈祷会は姿を消してしまいました。神を求める新しい祈りのスタイルが導入されたためです。神さまの導きだと信じていますが、当時の詩篇の瞑想はノートを取ることもなかったため、今思い起こしても、なにをやっていたのか思い出せないほどです。
- 私が「詩篇の瞑想」に本腰を入れ始めたのは、それから4年余後の2005.3.23からのことです。一つの詩篇から一つのキーワードを選び出し、そこにあるテーマ、思想を思いめぐらしながら、時間をかけて、真剣に取り組み始めました。そしてそれをブログに毎日掲載しました。瞑想した内容が一つのまとまりを持つまでには、少なくとも2~3時間を要しました。時間的にも、精神的にも、ゆとりのない生活では到底できなかったと思いますが、そうした時を神さまがくださったのです。
- ブログでは、詩篇を一篇ずつ瞑想したものと、それにつけ加えて自分がどのような視点からその詩篇を瞑想したかを、「瞑想のためのコラム」という形で前置きして掲載しました。前者は「詩篇の瞑想」(当ホームページでは「詩篇の瞑想 A/B 」)として、後者は「詩篇瞑想のための手引き」としてファイルにまとめられています。
- 詩篇との本格的なかかわりは、忙しさの中で自分を見失って罪を犯した後からでした。自分の罪を悔い改めただけでなく、もう一度、最初から神とのかかわりを再構築したいという強い渇きが起こり、その渇きは私をして神を真剣に求めさせました。
- かつて、神の民であるイスラエルが国を失い、バビロン捕囚の憂き目を経験しながら、神を真剣に求めて、「昼も夜も主のみことばを口ずさむ」(詩篇1:3)ようになったこと、「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)が、自分の経験と重なるように思え、共感を覚えるとともに慰められました。
- これが私と詩篇との本格的なかかわりのはじまりでした。それからすでに(2009年12月現在で)5年の歳月が流れています。空知太栄光キリスト教会の主にあるスピリチュアル・フレンドとともに、日々、詩篇を味わうことができるのは、主の憐れみであり、私の喜びです。
- 詩篇の瞑想は、神を知るための窓口として、これからも私のライフワークとしてじっくりと取り組んでいきたいと思っています。
☞ 「私と詩篇のかかわり(パートⅠ)」
☞ 「なぜ、詩篇の瞑想なのか」
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