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私は心を尽くして主に感謝します

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37. 私は心を尽くして主に感謝します

【聖書箇所】 詩篇9篇1節(前半)

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【読み】
オーデー アドナーイ ベル リビー

【文法】
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
私は心を尽くして【主】に感謝します。
【口語訳】
わたしは心をつくして主に感謝し、
【新共同訳】
わたしは心を尽くして主に感謝をささげ/
【NKJV】
I will praise You, O Lord, with my whole heart

【瞑想】

詩篇9篇において、「心を尽くして」という言葉が意味することは何かを考えてみたいと思います。

ヘブル語の「心」(「レーヴ」לֵב)は、知性や意志の働きと強くかかわり、むしろ理解力や悟りを意味します。心情的、情緒的なニュアンスの強い日本語の「心」とは少々異なります。

日本語の「心」は情緒に重きが置かれますが、ヘブル語の心(「レーヴ」לֵב)は、どちらかといえば、理解力、洞察、悟りといった知性や意志の働きと強くかかわっています。「計画・意図・良心・決断」といった意味をが含まれています。ですから、自発性、主体性、自立性といった意味合いが含まれます。「心を尽くす」とは、しなければならないからするといった義務からではなく、自ら進んでという自発性を意味することばです。

日本語の「心」というイメージはどうしても、イコール「気持ち」となってしまいがちですが、たとえどんなに気持ちが強かっとしても、行為の真の原動力となるものは、気持ちではなく、理解力なのです。ですから、「心を尽くして主に感謝します」いう場合、気持ち先行ではなく、なにゆえに感謝するのか、それがきちんと把握されて、理解されて、はじめて感謝するいうことが、聖書の意味するところなのです。

すばらしいことを聞いたり、見たりして、経験したりして感謝することはだれでもできます。しかし理不尽な現実の中にあっても主に「感謝」できるとすれば、それは主がどのような方であるかということを知ることなくしてできません。「神が良いお方であり、すべてのことを相働かせて益として下さる方である」という信仰に基づくのでなければ、いかなる状況においても感謝することはできないのです。特に、詩篇9篇の場合には、神のさばきの不思議さという面に心の目が開かれることを通して、はじめて感謝することができることを示唆しています。

そのような意味において、「心を尽くす」とは、私たちが精一杯の気持ちをこめてという心情的なニュアンスではなく、常に、神がいかなる方であるかを知る(神の歴史の舞台においてそのことを知り続ける)ことを意味しています。換言するならば、「心を尽くす」とは、神のなされる最終的な視点から物事を見、判断するというきわめて沈着冷静な構えを表すことばだと私は理解しています。

詩篇9篇の場合、「心を尽くして、あなたに感謝します」の「感謝」は、神が最終的な正しい審判者であって下さるという信仰から生じています。つまり、神が義と公正をもってさばきを行われる方である、という終末論的視点から生まれる感謝なのです。その意味では、感謝は(9篇2節の「賛美すること」も含めて)、その場限りの感触ではなく、極めて「預言的」「終末論的」と言えます。

「心を尽くして主に感謝する」という場合、「感謝する」という行為の前に、優先順位として、「心を尽くす」ことが先に来なければなりません。まず、神がいかなる方であるか、そのことを知るということが、優先されている表現なのです。私たちは単に「主に感謝します」ということばを言うこと以上に、「心を尽くして」神を知り、神を求めることが大切なのです。それは日々の絶えざる瞑想によって培われる信じます。

【付加】
「心を尽くして感謝します」⇒楽譜

【補足】
詩篇9篇と10篇で一つのアルファベット詩篇を構成しています(かなり不完全ではありますが・・・)。たとえば、1節と2節で、以下のように冒頭の文字が「アーレフ」で始まります。訳文では分かりませんが、とてもきれいな配列となっています。

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2013.3. 23


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