****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

穀物のささげ物(穀物の献げ物)

文字サイズ:

レビ記は、「キリストの十字架の血による贖いの神秘」を学ぶ最高のテキストです。

2. 穀物のささげ物(穀物の献げ物)

ベレーシート

  • 「全焼のいけにえ」に附随してささげる物に「穀物のささげ物」があります。この「穀物のささげ物」は原文では「コルバン・ミンハー」(קָרְבַּן מִנְחָה)で「贈り物」を意味します。「ミンハー」(מִנְחָה)の一語だけでも「穀物のささげ物」を意味します。それは、神の地の恵みに対する返礼の贈り物です。五つのささげ物の中で、唯一、血によらないささげ物であり、自らの手で労して作った産物(最良の小麦粉)に、油と乳香を添えてささげる贈り物です。口語訳はこのささげ物を「素祭」と訳しています。今回はこの「穀物のささげ物」とその象徴的意味について瞑想したいと思います。

1. 「穀物のささげ物」の諸規定

【新改訳改訂第3版】レビ記2章1~3節

1 人が【主】に穀物のささげ物をささげるときは、ささげ物は小麦粉でなければならない。その上に油をそそぎ、その上に乳香を添え、
2 それを祭司であるアロンの子らのところに持って行きなさい。祭司はこの中から、ひとつかみの小麦粉と、油と、その乳香全部を取り出し、それを記念の部分として、祭壇の上で焼いて煙にしなさい。これは【主】へのなだめのかおりの火によるささげ物である。
3 その穀物のささげ物の残りは、アロンとその子らのものとなる。それは【主】への火によるささげ物の最も聖なるものである。


●1節の「人が」と訳されている原語は単数形の「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)が使われています。七十人訳では「プシュケー」(ψυχή)。ちなみに、1章2節では「あなたがたのうちのだれかが」(新共同訳)と訳されていますが、そのような語彙はなく、「アーダーム」(אָדָם)が使われています。七十人訳では「アンスローポス」(ἄνθρωπος)がその訳語に充てられています。

●「五つのささげ物」に言及している1~5章に限って言えば、奉納者のことを表すのに二つの語彙を用いています。
①「アーダーム」(אָדָם)で表わす場合(1:2/5:3, 4)。5:4は冠詞付の「ハアーダーム」(הַאָדָם)
②「ネフェシュ」(נֶפֶשׁ)で表わす場合(2:1/4:2, 27/5:1, 2, 4, 15, 17)。

●このことが意味していることは何なのでしょうか。創世記2章7節に、「神である主は土地のちりで(「ハーアーダーム」הַאָדָם)を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで(הַאָדָם)は生きもの(者)(「ネフェシュ」נֶפֶשׁ)となった。」とあります。この二つの語彙は人間の本質を相補的に表しています。最初の人アダムは生きた者となったのですが、サタンの惑わしによって神との交わりを失ってしまいました。しかし最後のアダムであるイェシュアは最初のアダムの失敗を踏み直し、レビ記にある五つのささげ物に代わって「神に受け入れられる」完全な、しかも一回限りにおいてのささげ物の実体となってくださったのです。


(1) 「ささげる物」

  • 「穀物のささげ物」は「最上(上等)の小麦粉」(「ソーレット」סֹלֶת)です。それに「油」(「シェメン」שֶׁמֶן)と「乳香」(「レヴォーナー」לְבוֹנָה)が加えられます。「乳香」については脚注を参照。
  • 「最上の小麦粉」(「ソーレット」סֹלֶת)が聖書で最初に登場するのは創世記18章で、アブラハムが三人の訪問者をもてなすために作ったパン菓子の材料です。ここにはアブラハムの最高のもてなし(ホスビタリティ・マインド)を見ることができます。最高の小麦粉、「柔らかくて、おいしそうな子牛」を選んで料理し、それを彼らの前に供え、しかも、立って彼らに給仕したのです。

(2) ささげ方

① 粉のままの上等な小麦粉に、オリーブ油と乳香を加えたもの
② 小麦粉に油を混ぜ、かまどで焼いて作った輪型のパン
③ 種(酵母菌)を入れないで作った薄焼きせんべいにオリーブ油を塗ったもの

祭司は①②③の中から、「記念の部分」を取り出し、祭壇の上で焼いて煙にします。残りの部分は、アロンとその子らのものとなります。これは「主へのなだめのかおりの火によるささげ物」の「最も聖なるもの」(あるいは「最も神聖なもの」)と言われます。幕屋が聖所と至聖所とに分かれているように、ささげ物にも「聖なるもの」と「最も聖なるもの」とがあり、後者は祭司だけが口にすることのできるもので、彼らの家族たちには食べることの許されなかったものだということです。

(3) 「穀物のささげ物」にはすべて塩を入れ、塩を添える

【新改訳改訂第3版】レビ記 2章13節
あなたの穀物のささげ物にはすべて、で味をつけなければならない。
あなたの穀物のささげ物にあなたの神の契約の塩を欠かしてはならない。
あなたのささげ物には、いつでもを添えてささげなければならない。

  • なにゆえに「穀物のささげ物」には「塩」(「メラハ」מֶלַח)で味付けし、「塩」を添えなければならないのでしょうか。それは神とアロンが結んだ「塩の契約」がその背景にあると考えられます。「塩の契約」とは「不変の契約」を意味します。聖書では二箇所にこの「塩の契約」について記されています。民数記18章19節とⅡ歴代誌13章5節です。前者は大祭司アロンと交わした契約であり、後者はダビデと交わした契約です。いずれも不変の契約なのですが、ここでアロンと交わした契約を確認しておきたいと思います。

【新改訳改訂第3版】民数記18章8~10、19節

8 【主】はそれから、アロンに仰せられた。「今、わたしは、わたしへの奉納物にかかわる任務をあなたに与える。わたしはイスラエル人のすべての聖なるささげ物についてこれをあなたに、またあなたの子たちとに、受ける分として与え、永遠の分け前とする。
9 最も聖なるもの、火によるささげ物のうちで、あなたの分となるものは次のとおりである。最も聖なるものとして、わたしに納めるすべてのささげ物、すなわち穀物のささげ物、罪のためのいけにえ、罪過のためのいけにえ、これらの全部は、あなたとあなたの子たちの分となる。
10 あなたはそれを最も聖なるものとして食べなければならない。ただ男子だけが、それを食べることができる。それはあなたにとって聖なるものである。
19イスラエル人が【主】に供える聖なる奉納物をみな、わたしは、あなたとあなたの息子たちと、あなたとともにいるあなたの娘たちに与えて、永遠の分け前とする。それは、【主】の前にあって、あなたとあなたの子孫に対する永遠の塩の契約となる。


●「永遠の分け前」(新共同訳は「不変の定め」、口語訳は「永久に受くべき分」、関根訳は「永遠の定め」と訳す)という語彙は、旧約では7回(出29:28/レビ6:18, 7:34, 24:9/民18:8, 11, 19)使われていますが、すべてアロンとその子どもたちに対して与えられるものを意味しています。このようにして、主はアロンとその子たちの生活を保障されたのです。これが「塩の契約」と言われるものです。それを表わすためにすべての穀物のささげ物は「塩」で味付けされ、「塩」が添えられたと考えられます。「塩の契約」は、いわば祭司職にある者の生活を保障すると同時に、彼らに、神と人とに対する献身的な奉仕に専念させるためのものでした。つまり、神に対してだけでなく、人に仕えることを意味するささげ物でもあるのです。


2. 「穀物のささげ物」が象徴していること

  • 「穀物のささげ物」が象徴している事柄は、「塩」と深く関係しています。当時、「塩」は貴重なものでした。「塩」はまさに神と人、人と人との愛のかかわりを保ついのちそのものと考えられていたのです。「塩け」は神との親しいかかわりの中で育てられます。したがって、神への愛と献身が薄らげば、その塩味も薄れることになります。イェシュアは「あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。そして、互いに、和合して暮らしなさい。」(マルコ9:50)と言われましたが、このことばは文脈的に考えるならば、弟子の道について教えられたイェシュアの「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい」(35節)という教えの結論的フレーズとして置かれているように思います。神との親しいかかわりを通して、自分自身のうちに塩けを保ちつつ、人に仕え、互いの間に神の平和を作り出すことを意味しています。
  • まさに、「穀物のささげ物」はイェシュアの生涯を象徴しています。使徒パウロはそのイェシュアの姿を次のように記しています。

【新改訳改訂第3版】ピリピ人への手紙2章3~8節
3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。


(1) 謙遜と柔和さの象徴としての「穀物のささげ物」

  • 「穀物のささげ物」には、少しでも「パン種」(酵母菌)や「蜜」を入れて作ってはなりませんでした。なぜなら、パン種は偽善と腐敗の象徴であり、「蜜」(今日の果物のジュース)は火にかけると酸っぱくなって味が変わることから自己中心的な奉仕を象徴するからです。そのような奉仕は多くの人々に迷惑をかけ、傷つけることになります。そのような自己中心的な奉仕では神の栄光を現わすことはできません。それゆえ、「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって」仕えることが必要なのです。つまり「自分を無にする」「十字架につける」と表現されるように、自我が砕かれることが求められます。その意味ではイェシュアは完全な「穀物のささげ物」なのです。
  • また、ヨハネの福音書13章にある「洗足」の行為も「穀物のささげ物」を象徴しています。イェシュアは弟子たちに「このわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。」(13:14)と語られ、自らその模範を示されました。
  • 使徒パウロは「私たちは、多くの人のように、神のことばに混ぜ物をして売るようなことはせず」(Ⅱコリント2:17)と述べていますが、これはパンとなる小麦粉の中に少しの「パン種」(酵母菌)も「蜜」も入れてはならないという「穀物のささげ物」の規定から語られているのです。

(2) 聖霊の象徴としての「油」

  • 「穀物のささげ物」は、小麦粉と共に「塩」だけでなく、「油」(オリーブ油)が加えられました。「油」は聖霊の象徴です。神のみこころにかなった奉仕をするためには、聖霊の助けが必要です。イェシュアが公生涯において全人類のためにメシアとしての働きをする前に、聖霊による油注ぎを受けられました。イェシュアの三年半にわたる働きにはすべて聖霊の助けが与えられていました。私たちも神と人とに仕えるためには、同じ聖霊の助けが必要です。

(3) 祈りの象徴としての「乳香」

  • また、「穀物のささげ物」には、「乳香」を添えてささげなければなりませんでした。乳香を添えたささげ物は「穀物のささげ物」だけです。「乳香」は「祈り」を象徴しています。聖霊を象徴する「油」と祈りを象徴する「乳香」はワンセットです。イェシュアは公生涯において多くの人々に仕えましたが、その背後には祈りがありました。どんなに疲れていたとしても、イェシュアは絶えずさびしい所に退かれて祈られました。この祈りこそ「乳香」のかおりであり、イェシュアの原動力だったのです。
  • 使徒パウロは、「私たちは、・・神の前にかぐわしいキリストのかおり」(Ⅱコリント2:15)だと述べています。その「かおり」は、ある人たちにとっては「いのちから出ていのちに至らせるかおり」であり、ある人たちにとっては「死から出て死に至らせるかおり」だとも言っていますが、「このような務めにふさわしい者は、いったいだれでしょう。」(Ⅱコリント2:15~16)とも述べています。私たちがキリストのすばらしいかおりを放つためには、「乳香」が象徴する「祈り」が必要なのです。


脚注

乳香.JPG

●乳香の樹脂は樹木から分泌される固形の樹脂のことで、半透明で乳白色をしています。それがこの名前の由来になったようです。乳香は焚いて香として、または香水などに使用する香料の原料として利用されています。

●イエス・キリストが誕生したときに、東方の博士たちが黄金、没薬(もつやく)と共に乳香を贈り物としてささげたことが新約聖書に書かれています(マタイ2:11)。乳香は没薬と同じく最古の香料の一つで、当時は黄金と同等の価値を持つ貴重なものとして扱われていました。


2016.4.6


a:11705 t:6 y:3

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional