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第一次伝道旅行 (4) 信仰のフォローアップ

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21. 第一次伝道旅行 (4) 信仰のフォローアップ

【聖書箇所】 14章21節~28節

画像の説明

ベレーシート

  • 第一回伝道旅行の終点は「デルベ」でした。そこから引き返して、出発したアンテオケへ戻るまでの経過が記されていますが、そこには宣教におけるきわめて重要な事柄が実は記されています。特に、22~23節は重要です。その箇所に注目しながら、信じた者たちに対するアフターケアー(宣教後のフォローアップ)がどういうものであったか、とても気になるところです。陸路を通れば、アンテオケに向かうことは出来たはずですが、パウロとバルナバはあえて来た道を「引き返す」形で、すでに主の弟子たちとなった者たちにフォローアップしようとしたのです。
  • 一方的なやりっぱなしの宣教ではなく、神がなされた働きの実を確固とするための働きも必要だと感じたためです。

1. 原文のテキストから見えるもの

使徒14章21~22節
21 彼らはその町で福音を宣べ、多くの人を弟子としてから、ルステラとイコニオムとアンテオケとに引き返して、
22 弟子たちの心を強め、この信仰にしっかりとどまるように勧め、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なければならない」と言った。
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  • 21~22節には多くの「動詞」が登場します。しかし、主動詞と言われるものはただ一つで、それは「引き返した」という動詞です。22節にあるすべての動詞は、原文では「(心を)強める」こと、「(信仰にしっかりと)とどまる」こと、「勧めた」こと、これらはみな分詞、あるいは不定詞となっていて、全体の流れとしては、22節に記されていることをしながら、彼ら(パウロとバルナバ)はこれまで通って来たところを「引き返した」(アオリスト)ということになります。

2. 信仰にとどまることは多くの苦しみを通ること

  • キリストの福音を信じて主の弟子となった者に、パウロやバルナバは甘言を与えることはしませんでした。主イエスがそうであったように、信仰と苦難は表裏一体であることを教えようとしました。

「狭い門からはいりまなさい。滅びに至る門は大きく、その道は狭いからです。・・・いのに至る門は小さく、その道は狭く、それを見出す者はまれです。」(マタイ7:13~14)

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」(マタイ16:24)

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子となることができません。」(ルカ14:26)

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえられなければならない、と弟子たちに教え始められた。」(マルコ8:31)

  • 使徒パウロやバルナバたちが福音を宣教しながら同胞のユダヤ人から迫害を受けるのを弟子となった者たちは身近に知りました。ルステラにおいては、迫害によってパウロが石打ちにあったことも目撃しました。ですから、「神の国にはいるには、多くの苦しみを経なければならない」ということ、つまり、信仰の道はいろいろな苦しみに会うことは避けられないということを教えつつ、それ以上に信仰の道は価値ある道であること、信仰にしっかりと踏みとどまるように励まし、そして勧めたのです。そのようなことをしながら、彼らは引き返したのです。
  • ちなみに、22節で分詞や不定詞で使われている動詞の原語は以下の通りです。
    (1) 「強める」は「エピステーリゾウ」έπιστηρίζωで、いっそう強固にする、力づけるという意味。
    (2) 「しっりとどまる」は「エンメノー」έμμένωで、堅くとどまる、堅く守る、守り通す、貫徹することを意味します。
    (3) 「勧める」は「パラカレオー」παρακαλέωです。

3. 主にゆだねるということ

  • もう一つ大切なフォローアップを23節に見ることが出来ます。

    【新改訳改訂第3版】使徒14章23節
    また、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。

  • 23節の文節でも主動詞は一つで、「ゆだねる」がそれです。
    新しく建て上げられた教会が建て上げられて行くために、使徒たちは長老(複数)をそれぞれの教会に選び、数々の祈りと断食にしてから、最終的に、主に「ゆだねた」のです。この23節の「ゆだねる」という動詞と26節の「ゆだねる」は原語が異なります。前者は「傍らに置く、もてなす、提示する」という意味の「パラティセーミー」παρατίθημιの中態で「任せる、ゆだねる、委任する」という意味。後者は「パラディドーミー」παραδίδωμιで「手渡す、引き渡す、許可する」という意味での「委任する、任せる、ゆだねる」という意味です。後者は人に自由を与えて解き放つという意味合いがありますが、前者はすべてを主の前に差し出すといった意味合いが強いです。つまり、完全に神に任せるということです。
  • 使徒パウロとバルナバは、宣教の働きを通して与えられた主の弟子たちのフォローアップを心を尽くしてなした上で、彼らを主の前に差し出すようにして「ゆだねた」のです。使徒20章32節でのエペソでの訣別説教の中でもパウロは同じように言っています。

    【新改訳改訂第3版】
    いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます(パラティセーミー」παρατίθημιの現在形)。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。


2013.5.16


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