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第三のしもべの歌

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43. 第三のしもべの歌

【聖書箇所】50章1~11節

ベレーシート

  • イザヤ書50章には三つの人称による語りかけがあります。一つは、1~3節にある「主」ご自身の語りかけです。もう一つは、4~9節に見られる「私」という存在の語りかけです。さらにもうひとつは、10節に見られるイザヤの語りかけです。11節は括弧はありませんが、主ご自身が「このことはわたしの手によってあなたがた(=イスラエル)に起こり」と語りかけています。
  • この章で注目すべき所は、「私」と語る語りかけです。この「私」という存在がなぜ「しもべ」なのかといえば、10節でイザヤが「あなたがたのうち、だれが主を恐れ、そのしもべの声に聞き従うのか。」と述べているからです。それゆえ、この箇所は、イザヤ書における「第三のしもべの歌」と呼ばれています。そしてこのしもべは、神のしもべ「イェシュア」を示唆しています。

(1)「第一のしもべ」の特徴
イザヤ書42章の「第一のしもべ」の特徴は、国々に公義をもたらすことでした。「公義」とは「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)、すなわち、神の統治(支配)をこの地上にもたらすことです。どのようにしてその統治をもたらすかと言えば、「みことばの回復」によってです。

(2) 「第二のしもべ」の特徴
イザヤ書49章の「第二のしもべ」の特徴は、みことばを回復するための武器として、しもべの口が鋭い剣のように、また、とぎすました矢として用いられるために、主の中に隠されるということです。それゆえ、時が来たとき、(福音書を見ると分かりますが)、神のしもべであるイェシュアの語ることばは、みことばを剣のように、矢のようにして、敵を射抜きました。それゆえ、だれ一人として反論することができなかったのです。それはしもべが周到な備えの中に隠され、整えられていたからです。


1. 朝ごとに、しもべの耳を開かれる主

  • では、50章の「第三のしもべ」の特徴は何でしょうか。結論的に言うならば、「耳が開かれた従順なしもべ」です。聖書のテキストを見ながら、主としもべのかかわりを観察してみましょう。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書50章4~7節
4 神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、
6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。
7 しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。


●「弟子の舌」
「弟子」とは複数形で「教えを受けた者たち」という意味です。「教える、学ぶ」という意味の動詞「ラーマド」(לָמַד)の形容詞「リンムド」(לִמֻּד)の複数形「リンムーディーム」(לִמּוּדִים)で、主によって「教えを受けた者たち」です。「舌」はその教えを語る器官であり、預言者的な務めをする者にとってきわめて重要なものです。その舌を、主がしもべに与えられるのです。しかも「与える」は預言的完了形です。

●「疲れた者をことばで励ますことを教え」
「疲れた者」とは、何らかの重荷を担うことに疲れた者(単数)、またあるいは、罪、災い、試練の重荷に耐えかねている者かもしれません。その者に対して、神のことばをもって励ますことを教えるために(原文では「知るために」)、という意味。確かに、イェシュアは「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」(マタイ11:28)と招きのことばを語っています。

●そうした務めを果たすことができるように、主はご自身のしもべを「朝ごとに」「呼びさまし」ます。「朝ごとに」は、原文では「バ・ボーケル」(בַּבֹּקֶר)を二回繰り返しています。それは強調を表現するヘブル語の修辞法で「朝ごとに、毎朝、来る日も来る日も」という意味です。そのようにして、主はしもべを、そしてしもべの耳を「呼びさます」(「ウール」עוּרの未完了、使役形)のです。この動詞は二回使われていますが、新改訳では二回目は、しもべの耳を「開かせて」と訳しています。つまり「呼びさます」とは、「耳を開かせる」と同義だということです。

●4節の最後の行は、「私が弟子のように聞くようにされる」と訳されていますが、原文は「弟子たちのように聞くために」です。ちなみに、ここの「聞くため」は「聞く」(「シャーマ」שָׁמַע)の不定詞です。旧約聖書で「聞く」とは「従う」ことを意味します。

●5節に「主は、私の耳を開かれた」とあります。ここでの「開かれた」という原語は「パータハ」(פָּתַח)です。それは文字どおりの「開く」を意味しますが、同時に「なぞを解き明かす」という意味もあります。そのために、4節にあるように、主は弟子のように、しもべが従順に「聞く(従う)」ために、朝ごとに「呼びさまし」「耳を開かせ」るようにしたのです。ここにはいわば「従順用語」が畳みかけるようにして使われています。

  • 以上のように、「第三のしもべ」の特徴は、自発的な従順なしもべです。「耳を開かれる」というフレーズは従順を意味します。ちなみに、詩篇40篇6節にも「あなたは私の耳を開いてくださいました。」とあります。その意味は、同じく8節に「わが神。私はみこころを行うことを喜びとします」と説明されています。「耳を開くこと」と「みこころを行うことを喜びとする」こととが同義であることが分かります。ところが、ここでの「耳を開く」と訳された原語は「カーラー」(כָּרָה)という動詞で、旧約では15回、詩篇では6回(7:15/22:16/40:6/57:6/94:13/119:85)使われています。
  • 本来、この動詞は「穴を掘る、穴をあける、刺し通す」という意味です。この「耳を開く」という言葉の由来は、出エジプト記21章に記されています。それによれば、6年間、強制的に義務として仕えてきた奴隷が7年目に自由の身となるにもかかわらず、そのあとも、自ら主人のもとで自発的に仕えたいと決心した者は、公に、自分の耳をきりで刺し通さなければなりませんでした。それは、奴隷にとっての、主人に対する目に見える「愛のしるし」「従順のしるし」でした。そこから、しもべが「耳を開く」とは、主人にとっては「からだ全体」を受け取ることを意味するようになりました。それゆえ、ヘブル人への手紙10章5節では「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」と引用されています。「耳を開く」ことが「からだを造る」こととして解釈されています。そこには隠された深い意味があります。
  • 「からだ」は、神のみこころを行うために必要なものであること。また、主に対する愛と従順のあかしを立てるために不可欠なものだということです。これはやがてメシア王国(千年王国)においても、その後の「新しい天と新しい地」においても、なぜ、私たちが朽ちないからだを与えられるのかの答えがあります。そこは霊的な国ではなく、朽ちないからだを与えられて、永遠に、神に仕える世界です。そのために「からだ」が不可欠なのです。からだのない霊的な世界ではなく、からだをもって交わる世界なのです。ここにキリストの花嫁が「キリストのからだ」と呼ばれるヘブル的所以があるのです。
  • 再び、イザヤ書50章に戻りますが、5節の「耳を開かれる」ということばは、第三の「しもべの歌」においては、神のみおしえ(トーラー)を学ぶことを意味します。メシアであるしもべが神の任務を全うするためには、しもべ自身がまず神の御声を十分に聞くようにされなければなりませんでした。それは「学ぶ」ことを意味します。神のことばを人に教えるためには、教える者自身がまず学ばなくてはならないのです。耳が開かれることによって、神の教えについての知恵、洞察力、説得力が与えられます。学ぶ力と教える力を身に着けることを、聖書は「耳を開かれる」と表現するのです。「耳を開かれる」という「パータハ」(פָּתַח)は語彙としては異なりますが、意味としては「カーラー」(כָּרָה)ときわめて近いものがあります。

2. 従順なしもべの苦難に対する不退転の決意

  • 「耳を開かれる」とは、神の御声を十分に聞くようにされるだけでなく、たとえ迫害や恥辱を受けたとしても、主を信頼して、喜んで従って行くことを意味します。後戻りは許されないのです。イザヤ書50章5節以降を見てみましょう。

    【新改訳改訂第3版】イザヤ書50章5~9節

    5 神である主は、私の耳を開かれた。私は逆らわず、うしろに退きもせず、
    6 打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。
    7 しかし、神である主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。それゆえ、私は顔を火打石のようにし、恥を見てはならないと知った。
    8 私を義とする方が近くにおられる。だれが私と争うのか。さあ、さばきの座に共に立とう。どんな者が、私を訴えるのか。私のところに出て来い。
    9 見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。


    ●「逆らわず、うしろに退きもせず」(5節)
    しもべは大胆に神のことばを伝えることで、迫害や恥辱を受けることが定められています。しかし主のしもべは、それらに躊躇することなく、完全に喜んで、不退転の決意をもって従って行きます。

    ●「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった。」(6節)
    ここには主体的に、自発的に自ら進んで忍耐をもって苦難を受けるしもべの姿があります。「髭を抜かれる」とは屈辱と侮辱を意味します。このような最低の侮辱は、いかなる人間といえども甘受することは出来ません。しかし、まさにメシアこそこの恥辱的な苦難を自ら受けられるのです。この苦難はイザヤ書53章の「第四のしもべの歌」でクライマックスに達します。

    ●「主は、私を助ける。それゆえ、私は、侮辱されなかった。」(7節a)
    なぜか? それはしもべが主を信頼しているからです。主の助けの保障があるので、恥辱と屈辱の中にあっても耐えられるのです。

    ●「顔を火打石のようにし」(7節b)
    「火打石」とは最も堅い石を意味するところから、どんなことがあってもひるまない確固さを意味します。

    ●「恥を見てはならないと知った」(7節c)
    原文では「私は恥を見ないということを、私は知った」です。旧約聖書で「恥を見る」という表現は、失望落胆することを意味します。しかしそれがここでは否定されています。つまり、主に従うなら、決して失望させられることがないのだという確信が与えられたという意味です。

    ●「見よ。神である主が、私を助ける。だれが私を罪に定めるのか。見よ。彼らはみな、衣のように古び、しみが彼らを食い尽くす。」(9節)
    これは従順による勝利を宣言していることばです。


  • 使徒パウロは、神のしもべであるイェシュアをメシア(キリスト)として次のようにたたえています。

    【新改訳改訂第3版】 ピリピ人への手紙2章6~11節

    6 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、8 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました
    9 それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、11 すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

  • 従順なしもべが「恥を見ない」という確信をもって歩んだことがいかにすばらしい事か、謙遜と従順の極みをイェシュアの中に見させられます。

2014.10.24


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