第三次伝道旅行 (3) 励ましと慰め
「使徒の働き」を味わうの目次
33. 第三次伝道旅行 (3) 励ましと慰め
【聖書箇所】 20章1節~16節
使徒パウロの生涯の略年譜
ベレーシート
- 使徒の働き20章1節、2節、12節の三箇所にはある同じ用語が使われています。それは「バラカレオー」です。この用語は、「傍らに」を意味する前置詞の「パラ」(παρά)と「呼ぶ」を意味する動詞の「カレオー」(καλέω)からなる合成語で、新約聖書では109回使われています。そのうち使徒の働きは22回、Ⅱコリントは18回の使用で特愛用語です。
(1) 使徒20章1節
騒ぎが治まると、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤへ向かって出発した。
(2) 使徒20章2節
そして、その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシヤに来た。
(3) 使徒20章12節
人々は生き返った青年を家に連れて行き、ひとかたならず慰められた。
「パラカレオー」には以下の意味合いがあります。
① 傍らに招く、そばに呼ぶ
② (~するように人に)説き勧める、勧告する、勧める
③ 懇願する、嘆願する
④ 励ます、慰める、力づける
⑤ 指図する、教える
- ちなみに、「パラクレオー」の名詞は、「パラクレーシス」(παράκλησις)で、本来、これは戦いに際して、恐れ、不安、躊躇している兵士たちを勇気づけて戦いに送り出す用語です。新約聖書では29回。もうひとつ、「パラクレートス」(παράκλητος)という名詞もあります。新約聖書では5回。こちらの意味は、以下のとおりです。すべてヨハネ文書で用いられています。
① 神の右にあって私たちの罪の赦しのために弁護する「弁護者」(Ⅰヨハネの手紙2:1)
② 聖霊の別称である「助け主」(ヨハネの福音書14:16, 26/15:26/16:7)
1. 弟子たちを励まし、かつ慰められるパウロ
2 そして、その地方を通り、多くの勧めをして兄弟たちを励ましてから、ギリシヤに来た。3 パウロはそこで三か月を過ごした・・」
淡々と綴られているパウロのエペソからコリントで三か月を過ごしたパウロの足取り(20:1~3)の中には、多くの出来事が隠れています。20:3後半以降の記述は、コリントからエルサレムへの帰途についての記述です。
(1) パウロはエペソを後にしてトロアスヘ
- 20章1節の「騒ぎが治まると、パウロは弟子たちを呼び集めて励まし、別れを告げて、マケドニヤへ向かって出発した。」とあります。パウロがなぜマケドニアに行ったのかといえば、その一つの答えとして、第二次伝道旅行で開拓した教会を訪問するためだったと言えますが、特に、なかでもコリントの教会はパウロにとって悩みの種となっていたようです。マケドニアに行くにはどうしてもトロアスという港町を通らなくてなりません。Ⅱコリント2章12~13節にはこう記されています。
12 私が、キリストの福音のためにトロアスに行ったとき、主は私のために門を開いてくださいましたが、13 兄弟テトスに会えなかったので、心に安らぎがなく、そこの人々に別れを告げて、マケドニヤへ向かいました。
- トロアスではキリストの福音のために門が開かれたにもかかわらず、そのせっかくチャンスを見逃してしまうのはパウロらしくありません。しかしパウロにはそれを捨て去るほどのことが彼の胸中にあったのです。それはコリント教会の問題でした。コリントの教会には分裂分派ができ、異教的な問題もありました。そのためにパウロはかなり厳しい内容の手紙を書き、それを弟子のテトスに託したのですが、そのテトスが戻って来ないということがパウロに不安な思いを与えていたのです。トロアスでテトスに会えるのでは思っていましたが、会えなかったので、いたたまれず、自らマケドニアに渡っていったのでした。
- しかし、この話はⅡコリント7章5節につながっています。
5 マケドニヤに着いたとき、私たちの身には少しの安らぎもなく、さまざまの苦しみに会って、外には戦い、うちには恐れがありました。
6 しかし、気落ちした者を慰めてくださる神は、テトスが来たことによって、私たちを慰めてくださいました。7 ただテトスが来たことばかりでなく、彼があなたがたから受けた慰めによっても、私たちは慰められたのです。あなたがたが私を慕っていること、嘆き悲しんでいること、また私に対して熱意を持っていてくれることを知らされて、私はますます喜びにあふれました。
8 あの手紙によってあなたがたを悲しませたけれども、私はそれを悔いていません。あの手紙がしばらくの間であったにしろあなたがたを悲しませたのを見て、悔いたけれども、9 今は喜んでいます。あなたがたが悲しんだからではなく、あなたがたが悲しんで悔い改めたからです。
ここにはパウロが途中でテトスと出会て、彼らの報告を聞いて、どんなにか慰められたか、その喜びを記しています。パウロは厳しい手紙を書いたものの、果たしてそのことが受け入れられたかどうか心配でならなかったのです。テトスもなかなか戻って来ないともあり、パウロの心はかなり気落ちしていたようです。ところが、厚い雲が一気に張れるように、神からの慰めを経験したのです。パウロはこうした慰めを与えられて、第二の手紙をしたためたのです。
2. ユテコのよみがえりの出来事による神の慰め
- 20章7節~12節の出来事は、パウロがコリントから直接シリヤに向けて船出しようというときに、彼に対するユダヤ人の陰謀があったために、マケドニアの陸路を通って帰途につくことを余儀なくされました。パウロという人はユダヤ人の陰謀に対しては、その生涯においてことごとく守られています。しかしやくなく陸路を通ることはきわめて長い距離になります。ある人の計算によれば、コリントからエルサレムまでの直線距離はなんと2,311kmとしています。
- 帰路のトロアスで一つの出来事で起こります。それはユストという青年がパウロが熱心に語っているときに、その長引く話を聞いている間に深く眠ってしまい(原文では「眠りのために打ち倒されて」の意) 、三階から下に落ちて死んでしまったのでした。しかしパウロは取り乱さず、「心配することはない。まだいのちがある」と言って、また話を明け方まで続けて、それから出発したのです。まさに徹夜で語り続けたわけです。人々は生き返った青年を家に連れて帰り、ひとかたならず慰められた」のです。
- 「慰め」とは、決してセンチメンタルなことでありません。それは、人間の手にはどうしようもないことでも、その中に道を開いていく神の力なのです。苦難を避けて生きるのではなく、苦難のど真ん中を突っ切って行く力を与えられるのです。これが神の慰めです。
3. 自分の弱さを知る苦難と神の慰めを経験することは同義
- 神の慰めを経験するということは、気落ちし落胆する自分の弱さ、恐れやすい自分の弱さを正しく受け止めること意味します。パウロは自分の弱さを神に感謝しています。「主の力は、弱さのうちに完全に現われる。私が弱い時にこそ、私は強い。キリストの力が私をおおうために、むしろ私は喜んで、私の弱さを誇ろう」とあるように、パウロにとっては、自分の弱さを知ることと神の慰めの力を知ることとは同義なのです。
- それゆえ、パウロは慰めの神を賛美しています。
Ⅱコリント1章3節~5節
3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。
6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。
2013.8.22
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