****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

第二のしもべの歌

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41. 第二のしもべの歌

【聖書箇所】49章1~13節

ベレーシート

  • イザヤ書49章を二回に分けて瞑想します。一回目は1~13節です。ここでも人称が指し示している者がだれであるかを同定しなければなりません。「私」とはだれか。それはイザヤ自身でも、クロスでもありません。なぜなら、ここに記されているしもべの使命の範囲がイザヤやクロスの使命をはるかに越えたものだからです。では「私」とはだれか。それは主から「あなたはわたしのしもべ」、あるいは「あなたはわたしのしもべ、イスラエル」(49:3)と言われている存在です。「しもべ」は単数です。そしてそのしもべはイスラエルを代表する存在です。つまり、その「しもべ」とはイスラエルの失敗を踏み直して、本来イスラエルが果たすべき使命を代わりに果たす存在である神の御子イェシュアを示唆しています。
  • イザヤ書には四つの「主のしもべの歌」というのがあります。42章1~9節はその「第一のしもべの歌」でした。その「主のしもべ」の特徴は何よりもまず、この地上に「公義」を「打ち立てる」しもべです。どのようにしてそれをするのかと言えば、神のトーラー、すなわち、みことばを回復することによってです。では、第二のしもべの歌」の中に見られる「主のしもべ」の特徴とは何でしょうか。それは、その使命がイスラエルの回復と異邦人の救いをもたらすということです。その使命について見る前に、主としもべの関係を見てみたいと思います。

1. 主との親しいかかわりの中に隠されたしもべ

【新改訳改訂第3版】イザヤ書49章2節

主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し
私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した

(1) 「剣」と「矢」が意味するもの

  • この聖句では、単数形で表わされる「主のしもべ」が剣や矢に例えられるわけですから、「剣」や「矢」も男性・単数名詞であることは言うまでもありません。「主は私の口を鋭い剣のようにし」とありますが、この「」は「みことば」の比喩です。「剣」はヘブル語で「ヘレヴ」(חֶרֶב)です。ちなみに、使徒パウロがエペソ人への手紙6章17節に「御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。」と書いていますが、そこに使われている「剣」はヘブル語聖書では「ヘレヴ」(חֶרֶב)で、剣が神のことばであるとしています。
  • 「とぎすました矢」の「」(ヘブル語で「ヘーツ」חֵץ)も、みことばの比喩と解釈できます。なぜなら、49章2節はヘブル語特有のパラレリズム(同義的並行法)が用いられており、「主は私の口を鋭い剣のようにし、御手の陰に私を隠し」ということと「(主は)私をとぎすました矢として、矢筒の中に私を隠した」ということは同義と解釈できるからです。したがって「主のしもべ」は、主によって「鋭い」「とぎすまされた」みことばの武器をもったしもべだということが分かります。
  • 同じく、使徒パウロはエペソ人への手紙6章16節で「悪い者が放つ火矢」という表現を使っています。ここで使われている「火矢」は疑いや不信をもたらす意味ですが、「矢」はヘブル語にすると「ヘーツ」(חֵץ)でイザヤ書49章2節の「矢」と同じ語彙です。ただし、イザヤ書の方の「矢」は敵を打ち破る神の「矢」です。詩篇64篇7節には「しかし神は矢を彼ら(悪者)に射掛けられるので、彼らは、不意に傷つきましょう。」とあります。イザヤ書49章2節の主のしもべの歌の中にある「とぎすました矢」は、まさに敵を打ち破る神のみことばです。

(2) 「剣」と「矢」は神のご計画の中で「隠される」

  • 主のしもべが、預言者としての務めを果たすための口から出る鋭い剣を持ち、神のみこころを成し遂げていくための矢となるために、時が来るまで神は隠し、神のうちにとどまらせたのです。語る前に、与える前に、しっかりと自分のものとして学び、備えられる必要があるのです。神はそのようにしてご自身の「しもべ」に対して十分な備えを与えられる方です。これが「主の御手の陰に隠した」「矢筒の中に隠した」という意味です。
  • 「御手の陰に私を隠し」の「隠し」は「ハーヴァー」(חָבָא)のヒフィル態で、「矢筒の中に私を隠した」の「隠した」は「サータル」(סָתַר)のヒフィル態です。いずれも、神との親密なかかわりにおける重要な語彙です。
  • 御子イェシュアは公生涯に入るまでの30年という期間を御父のうちに過ごされ、公生涯に入られたあとも、御父のうちにとどまり続けました。その御子イェシュアが弟子たちに「わたしが御父にとどまっているように、あなたがたもわたしにとどまりなさい」と言われました。なぜなら、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないから」です(ヨハネ15:5)。「とどまる」とは「隠遁の召し」を生きることです。御父は御子イェシュアの口が鋭い剣となるように、また、とぎすまされた矢となるように、「御手の陰に隠し」、「矢筒の中に隠した」のです。このかかわりの秘義ー「シークレット・プレイス」(secret place)を与えられたしもべ、これが「第二のしもべ」の特徴です。

2. いたずらに、むなしく、力を使い果たしたかのように見える主のしもべ

【新改訳改訂第3版】イザヤ書49章4節、
4 しかし、私は言った。「私はむだな骨折りをして、いたずらに、むなしく、私の力を使い果たした。それでも、私の正しい訴えは、【主】とともにあり、私の報酬は、私の神とともにある。」

7 イスラエルを贖う、その聖なる方、【主】は、人にさげすまれている者、民に忌みきらわれている者、支配者たちの奴隷に向かってこう仰せられる。「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す。【主】が真実であり、イスラエルの聖なる方があなたを選んだからである。」

  • 主のしもべは幾分イザヤとイェシュアがかぶっています。イザヤの働きも主のことばを語りながら、彼の働きは「むだな骨折り」に終わったかのように見えます。捕囚前のユダの民を神に立ち返らせることは出来ませんでした。やがて来られるイェシュアの働きも、ユダヤ人を民族的に神に立ち返らせるということにおいては、実を結ぶことはできませんでした。力は空しく使い果たされたように見えます。しかし、神のご計画は完全に成し遂げられるのです。7節の、主が「人にさげすまれている者、民に忌み嫌われている者、支配者たちの奴隷」のように扱われる者はすべて単数であり、主のしもべとなるイェシュアのことを示唆しています。
  • 事実、イェシュアはユダヤの民にさげすまれ、忌み嫌われ、支配者たちによって奴隷のように扱われたからです。しかし、イェシュアが王として地上に再臨される時、「王たちは見て立ち上がり、首長たちもひれ伏す」ようになるのです。

3. 主のしもべの使命は「イスラエルの回復」と「異邦人の救い」

  • 第一の「主のしもべの歌」の特徴は、「公義を打ち立てるしもべ」でした。「公義」(「ミシュパート」מִשְׁפָּט)とは神の統治(支配)を表わす概念です。しかし、第二の「主のしもべの歌」の特徴は、しもべの使命が「イスラエルの回復」と「異邦人の救い」であることが明らかにされています。

4. メシア王国の基調は爆発的な「喜びと楽しみ」

【新改訳改訂第3版】イザヤ書49章13節
天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。【主】がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。

  • 天よ。喜び歌え。地よ。・・」に似たフレーズはこの箇所の他に、もう一箇所あります。それは44章23節です。

    天よ。喜び歌え。【主】がこれを成し遂げられたから。地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。林とそのすべての木も。【主】がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現されるからだ。」

  • ちなみに、この呼びかけのフレーズは一体だれが語っているのでしょうか。主ではないとすれば預言者イザヤですが、私はこのフレーズは、「人称なき存在」の声だと考えても良いのでは思います(イザヤ48:16)。詩篇の中にもそうした「人称なき存在」の声が語っている箇所が数多くあるからです。「人称なき存在」とは御霊のことです。
  • メシア王国(千年王国)は、私たちの想像をはるかに越えた爆発的な「喜び」と「楽しさ」が実現する世界です。天においても地においても、そして自然界も、人間も・・すべてが変わります。神から与えられた賜物(能力、個性など)が開花するように輝きます。しかもそれらは一つのからだのように、あるいは建物のようにすべてがむだがなく、愛によってしっかりと組み合わされます。教会の概念がそこで初めて実現するのです。ですから、ここで言われている「喜び」と「楽しみ」は決して夢物語ではないのです。
  • キリストの初臨の時にも、そこに大いなる喜びがあったことをルカはその福音書で記しています。

    ①「イェシュアをあかしするバプテスマのヨハネの誕生の喜び」(1:14, 44)、
    ②「マリアの喜びの賛歌」(1:47)
    ③「羊飼いたちに伝えられた喜びの知らせ」(2:10)
    ④「御子の任命式における御父の喜び」(3:22)
    ⑤「名が天に書き記されていることの喜び」(10:20)
    ⑥「聖霊による喜び」(10:21)
    ⑦「失われたものが見つかった喜び」(15:6, 9, 10, 32)
    ⑧「復活のイェシュアとの出会いと約束の喜び」(24:52)

  • これらに共通するのは、まさに神に愛される喜び、見出された喜びです。しかも、この喜びは終末論的、存在論的、救済論的喜びです。御国における光(啓示の光、悟りの光、愛の光)の種と同時に、喜びの種もすでに信じる者たちの心の中に蒔かれています。やがてそれらの種は芽吹き、大きな喜びの花を咲かせるのです。
  • 天の御国は「からし種」のようだとイェシュアは言われました(マタイ13:31~32)。「からし種」はどんな種よりも小さなものですが、やがてはどんな木よりも大きくなるのです。それが例えているように、人知をはるかに越えるような「喜び」と「楽しみ」の世界を待ち望める者はなんと幸いでしょうか。ダビデもそのことを知って預言的に語っています。「あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(詩篇16:11)と。


2014.10.21


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