****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

第二次伝道旅行 (5) テサロニケ、ベレヤ

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27. 第二次伝道旅行 (5) テサロニケ、ベレヤ

【聖書箇所】 17章1節~15節

画像の説明

ベレーシート

  • ピリピの教会を拠点として(そこにルカがとどまっています)、パウロの一行はテサロニケへと向かいました。いつものように、彼らはユダヤ人の会堂で、しかも三週間にわたり、聖書に基づいてユダヤ人と論じたとあります。何を論じたのでしょうか。今回はそこに突っ込みを入れてみたいと思います。

1. 使徒パウロたちの語った「福音」

  • 初代教会が「福音」として語ったのは、私たちが理解している「福音」とは少々異なります。初代教会が語った「福音」とは、「イエスがキリスト」であるという良きおとずれです。初代教会の宣教とはそのことを聖書(旧約聖書のこと)に基づいて立証することでした。「イエス」、その方が「よき知らせ」だったからです。
  • 私たちがしばしば口にする「イエス・キリスト」とは、イエスがキリストであるという信仰の告白です。「イエス」はこの地上に実在した「ナザレのイエス」のことです。この方の生涯のすべて、語ったことのすべて、また、なされたことのすべてが約束されたメシア、すなわちキリストであることを聖書自らが証ししているという告白です。「キリスト」は「油注がれた者」という意味で、これは名前ではなく職名です。
初代教会の信仰告白.JPG
  • 使徒パウロはダマスコ途上でイエスと出会ってから、目のうろこのようなものが落ちて、イエスは神の子であり、キリストであるとを確信しました。そしてそのこと(イエスがキリストであること)を証明して、ダマスコに住むユダヤ人たちをうろたえさせました(使徒9:22)。
  • イエス・キリストであることを証明する場合、それは必ず「聖書に基づいて」なされたのです。このことは、イエスが十字架にかかる前も復活した後にも、全く同じことが繰り返されています。
    イエスがエルサレムに向かって行く時、弟子たちに「人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられ、むちで打ってから殺します。しかし人の子は三日目によみがえります。」と語られましたが(ルカ18:32~33)、このことを理解した弟子たちはひとりもいませんでした。しかしこのことは旧約の預言者たちが預言していたことでした。弟子たちがイエスを「メシア」(すなわち「キリスト」)であることを悟り、確信できたのは聖霊による照明があったからです。復活されたイエスはエマオの途上の弟子たちに近づいて、キリストは栄光を受ける前に苦しみを受けるということを、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中でそのことを説き明かされました。聞いていた二人の弟子たちこのとき「心が燃える」のを感じていました。そのあとに彼らは目が開かれ、「イエスこそキリスト」なのだということを悟るようになったのです。
  • 使徒パウロはコリント人への手紙第一15章3節で「福音」についてのべています。そこでは最も大切な事として「イエスがキリストである」という前提で語っています。その核心にあったのは「聖書の示すとおり」だったことに注目しなければなりません。使徒たちの語る福音は、イエスのストーリー(イエスの全生涯の事実)が、イスラエルのストーリーの成就であるという良き知らせだったということです。「キリスト」ということばそのものが、実はイスラエルの歴史を背景とした語彙なのです。

2. 「イエスがキリスト」であることを悟ったテサロニケの人々

  • 使徒17章4節には、パウロの語る福音を理解したユダヤ人たちが幾人かいたことを記しています。そして彼らは弟子となってパウロとシラスについていきました。また、異邦人である「神を敬うギリシャ人」の人々、その中には多くの貴婦人(有力者)たちも同様に弟子としてついていきました。そのことが、ユダヤ人たちのねたみを買い、結局とのところ、パウロとシラスはテサロニケにいられなくなり、次の宣教地であるベレヤへ移動することになりました。

3. パウロの語った福音を毎日検証したベレヤの人々

  • ベレヤに移動したパウロとシラスはテサロニケと同様に、ユダヤ人の会堂で福音を伝えました。この人たちは非常な熱心さをもってみことば(福音)を受け入れただけでなく、それが果たしてそのとおりかどうか、毎日、聖書を丹念に調べたのです。その結果、彼らのうちの多くの者が信仰に入ったのです。その中には、テサロニケと同様、異邦人である貴婦人や男子も多くいたことを記しています。
  • ちなみに、ベレヤの人々はテサロニケの人々よりも「良い」(新改訳)、「素直な」(新共同訳)人々であると記されています。原語は「ユウゲネース」(εύγενης)で「より素直な」「より立派な心がけをもった」という意味。
  • 重要なことは、テサロニケにおいてもベレヤにおいても、またユダヤ人に対しても異邦人に対しても、使徒パウロは聖書に記されているイスラエルのストーリーを語り、イエスこそそのストーリーの完成者としてのメシア(キリスト)であることを大胆に宣べ伝えたということです。

4. むすび

(1) 福音の理解にはイスラエルのストーリーが不可欠であること

  • ここから教えられる第一のことは、「福音」がイスラエルの歴史を抜きにしては語っていないという事実です。「イエスはキリスト」ですという告白の中にそのことが要約されています。それゆえ、現代の教会はイスラエルに対する正しい理解が必要です。イエスが御父によってこの世に遣わされた目的は、第一義的には「イスラエルの家の滅びた羊」のためです(マタイ15:24)。この事実にしっかりと目を留めるならば、福音書で語られたイエスのことばの真意が開かれて来ると信じます(他にも、マタイ10:6、ルカ19:9~10などを参照)。
  • もし、この事実に私たちの目が塞がれているとすれば、私たちに伝えられて来た「福音」があまりにも「個人的な救い」として提供されたからです。特に、「神ー罪ー救い」式の福音理解では「イスラエルのストーリー」は必要なくなり、イスラエルのストーリーに基づいた「イエスがキリスト」であるとする初代教会の福音理解とは異なるものとなってしまいます。もしイスラエルのストーリーを正しく位置づけなければ、福音そのものが希薄なものとなってしまうだけでなく、神のイスラエルに対する想像を越えた熱い心と彼らの回復、ユダヤ人と異邦人からなる奥義としての「教会」の概念、神の全体的な経綸さえも見失ってしまうのです。

(2) 聖書(旧約)に基づいて福音を検証する力の必要

  • 第二に教えられることは、語られた福音が本当であるがどうかを検証する力を持つことです。今日のキリスト教会に欠けているのは、実はこの点です。福音を聖書(旧約)によって検証することのできる力、このことが「福音」の力をより新鮮に、かつ豊かなものにしていくのだと信じます。
  • イエスのたとえ話に「種蒔く人のたとえ」があります。イエスによって蒔かれたみことばの種が実り豊かな実を結ぶためには、ベレヤの人々がそうであったように、
    ●まず「地が柔らかであること」です。それは真理に対していつもオープン・マインドであることです。また理解の型紙を破る勇気を持っていることでもあります。これはエゼキエルが36章26節で預言しているように、「新しい心、新しい霊が授けられて、石の心の取り除かれ、柔らかな肉の心が与えられる」ことによって可能となるのです。
    ●そして次に「根が深くなければならないこと」です。そうなるためには、語られるみことばに対する検証力をもっている必要があります。その力がなければ、教えの風(流行、ムーブメント)に流されてしまうからです。神の国はいつも隠されています。ですから、その隠された事柄を見出そうとする熱心と検証力を養う必要があります。それはひとえにみことばを瞑想することです。瞑想は神(御父)の心を熱心に探し求める営みです。それによって神のことばである聖書全体がひとつにつながっていることを見出すようになるのです。
    ●そしてもうひとつは、「神をどこまでも信頼する心」です。それは私たちの生存と防衛の保障を完全に神にのみ置くことを意味します。イスラエルの歴史を学ぶならば、それがいかに難しいかを知るはずです。言うは易し、行うは難しです。神にのみ信頼することは、私たちの肉が最も嫌うことであり、「心をかたくなにする」メッセージなのです。
    イエスは、これらの三つの関門をすべてパスしてはじめて驚くべき豊かな結実が保障されることを、このたとえで語られたのだと信じます。


2013.6.27


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