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第二次伝道旅行 (7) コリント

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29. 第二次伝道旅行 (7) コリント

【聖書箇所】 18章1節~17節

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ベレーシート

  • 第二次伝道旅行において、これまで最も長く滞在することになるコリントの町へパウロは一人で行きますが、神はすでにそこにパウロの同労者となる「アクラとその妻プリスキラ」という夫婦との不思議な出会いを備えておられました。出会いはおそらくコリントのユダヤ人居住地区内で出会ったと思われます。彼らがパウロと同様に天幕作りの仕事をする技術を持っていたということもありますが、それ以上に、その夫婦がなぜコリントにいたのかという理由です。18章2節には「クラオデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマか退去させるように命令したため、近ごろイタリヤから来ていたのである」と記されています。この退去命令の理由は聖書には記されていませんが、岩波訳の脚注には、「おそらくローマ市在住のユダヤ人社会におけるユダヤ教徒とキリスト教徒との紛争によるものと推定される」としています。そして「もしこの推定が正しいとすれば、アクラとプリスキラ夫妻は、すでにキリスト教徒としてローマからコリントに来ており、それゆえにパウロは『彼らの家に住んで、一緒に仕事をした」(3節)と思われる』」としています。アクラとプリスキラ夫妻春ローマ教会の創立会員でした。パウロとの出会いはコリントでの教会建設における有力な神の導き出会ったと思われます。いずれにしても、早い時期から反ユダヤ主義政策があったことを示唆しています。
  • パウロがコリントに伝道した正確な時期は、ローマの地方総督ガリオの時代で(使徒18:12参照)、A.D.50年の秋から52年の春までです。

1. 会堂管理者の救い

  • パウロがコリントで伝道している間に、ペレヤにとどまっていたシラスとテモテがやって来ました(18:5)。以後、パウロはみことばを教えることに専念するようになります。そのことが可能となったのは、シラスとテモテがピリピ教会からの伝道のための資金をささげてくれたからでした。

    【新改訳改訂第3版】ピリピ人への手紙4章15~16節

    15 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。
    16 テサロニケにいたときでさえ、あなたがたは一度ならず二度までも物を送って、私の乏しさを補ってくれました。

  • パウロたちの経済的必要を支援することがピリピ教会に与えられた使命だったようです。今日においてもさまざまな宣教団体がその働きを継続されているのは、それを支える支援者がいるからです。神がそうした働きの志を与えておられるのです。
  • ピリピの教会からの経済的支援によって使徒パウロは、本来の使命に「専心する」ことができたのですが、特に、コリントでの働きで特徴的なことは、会堂管理者(シナゴーグの責任者)がイエスをキリストと信じて、その家族が洗礼を受けたことです。シナゴーグの管理者がイエスをキリストとして信じたということはとてもすごい神のみわざであり、それはユダヤ人と神を敬う者たちに大きな影響を与えたはずです。

    ※「神を敬う人」とは、ユダヤの会堂で学びながら割礼を受けていない異邦人、あるいは改宗一歩手前のユダヤ教求道者を意味します。ピシデアのアンテオケ(13:50)、ピリピ(16:14)、テサロニケ(17:4)、アテネ(17:7)、そしてコリント(18:7)。異邦人がユダヤ教に改宗した場合には「神を敬う改宗者」と言います。ピシデアのアンテオケ(13:43)がその例です。

  • 18章には二人の会堂管理者の名前が記されています。会堂管理者がイエスをメシアとして信じたのであれば、「使徒の働き」ではコリントが初めてのことでした。
    (1) クリスポ・・一家をあげて主を信じた。
    (2) ソステネ・・クリスボの後継者ですが、迫害を受けていることから、彼もイエスをメシアと信じたと思われます。

2. パウロの第二の「ある夜」

  • パウロがコリントで伝道の働きを続けられたのは、主が幻の中に現われ、パウロに直接語りかけてくださったことが挙げられます。

    18:9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
    18:10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。

  • この幻の中で、主はパウロに「恐れないで」と語っています。おそらくパウロの心に「恐れ」が生じていたと思われます。その恐れはどこから来たのか、それについては詳しく書かれていません。しかし文脈の流れからすると、会堂管理者がイエスをキリストと信じたことでユダヤ人たちの中に大きな反感が産まれ、それによる迫害が起こる可能性がありました。そうしたパウロの「恐れ」に対して、「恐れてはいけせん。かえって、語り続けなさい。わたしがあなたとともにいるからです。あなたを襲って危害を加える者は誰もいません。」という主のことばは、パウロにとって大きな励ましだったに違いありません。それゆえパウロは、腰を据えて、1年半の間、神のことばを教え続けることができたのです。この1年半という長さは、パウロにとってこれまでにない長期滞在でした。
  • 確かに、19章12~17節では、パウロの働きを妨害するために、この世の法に訴えますが、拒絶されてしまいます。パウロはイエスがキリストであることを聖書を拠り所として論じ、力を込めて立証し、かつ説得することのできた、いわばプロです。それに対して、イエスがメシアではないと聖書を土台として論証できるユダヤ人はひとりもいなかったのです。18章6節の「しかし、彼らが反抗して暴言を吐いた」とあります。ここの「反抗する」と訳された動詞の原語は「アンティタッソー」(άντιτάσσω)で、使徒の働きではこの箇所のみです。勢力的な対立の意味ではなく、論証に対する反対の意味だと思われます。しかし反論が立証できないので、暴言を吐くに及んだのです。
  • アテネのアレオパゴスでは、イエスという名前を出さない形での説教でしたが、偶像に対する悔い改めを迫り、さばきのために立てられた者が死から復活したことに話が及んだときに、ある人々はしきりにあざ笑い、その話はまたの機会に聞こうということで拒絶されました。「あざ笑う」(「クリュアゾー」χλευάζω)という動詞(未完了)はここにしか使われていない特別な言葉です。この反応はパウロにとってある意味でショックだったと思われます。なぜなら、後に、パウロは反省を込めながら、「私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心した」と述べているからです(Ⅰコリント1:2)。いずれにしても、法廷でのガリオによる裁判によって、パウロの働きは社会的に認められるようになったことは確かなのです。


2013.7.11


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