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第四のしもべの歌 (5)

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51. 第四のしもべの歌 (5)

【聖書箇所】53章10~12節

ベレーシート

  • イザヤ書53章は預言者イザヤが「主のしもべ」について歌って(語って)いますが、11節の後半部分から最後まで、つまり、「わたしの正しいしもべは・・・とりなしをする」までは、主ご自身が語っています。

1. 主の「みこころ」という語彙

【新改訳改訂第3版】イザヤ書53章10節
しかし、彼を砕いて、痛めることは【主】のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、【主】のみこころは彼によって成し遂げられる。


【新共同訳】
病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる。


【フランシスコ会訳】
ヤーウェは、彼を病苦で打ち砕くことを志とされた。もし彼が自ら償いの捧げ物とするなら、彼は末永く子孫を見るだろう。
ヤーウェのは彼の手によって成し遂げられる。


【中澤洽樹訳】
しかもヤーウェは彼を砕かんと欲し、彼を刺した。
「お前が(※)彼の生命を咎の償いとするならば、彼は子孫の末長き日を見、わが欲するところ、それが彼によって遂げられる。・・」

(ただし、括弧「」の部分にある「お前」とは神がイスラエルの民に語っていると解釈しています。)


【ATD訳】
ところが、ヤハウェは〈その打ち砕かれた者〉を喜ばれ、その命を償いのささげ物とした〈この者を癒された〉。彼は子孫を末長く生きるのを見、ヤハウェの意にかなうことは彼によって成就するであろう。


【バルバロ訳】
だが、主は、彼を苦しみで押しつぶそうと望まれた。彼は、あがないとしてわが身をささげることによって、末長く子孫を見るだろう。神のみ旨はこうして実現し


【口語訳】
しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命を長くすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。


  • 以上の訳文を並べて見るとき、10節の翻訳は(実は10~12節も)決して容易ではないことが分かります。しかしながら、10節にある特徴は、主の「みこころ」(新改訳)と訳された語彙が2回使われているということです。前者は動詞の「ハーフェーツ」(חָפֵץ)。後者は名詞の「ヘーフェツ」(חֵפֶץ)です。
  • 上記の諸訳で見るように、動詞の「ハーフェーツ」(חָפֵץ)は、「みこころであった」のほかに、「望まれた」「志とした」「欲した」「喜んだ」の意です。名詞の「ヘーフェツ」(חֵפֶץ)は、「みこころ」の他に、「望まれること」「志」「欲するところ」「意にかなうこと」の意です。まさにこれらは、主ご自身の喜びが込められた御旨そのものを表す語彙です。
  • しかも主のみこころは二つのことを含んでいます。そのみこころの第一は、主がその民の咎の償いのために「主のしもべ」を打ち砕くことです。そして第二は、神の民イスラエルを新しく生まれ変わらせるだけでなく、主のしもべも生き返って永遠にその子孫を見ることができるというものです。いずれも「主のしもべ」の手によってのみ主の御旨は成し遂げられるのです。ここに神の愛を見ることができます。主の民のために、主と「主のしもべ」が苦しみを受けるという愛です。最も大切なものを子に与えようとする親の強い愛の意志です。これが動詞の「ハーフェーツ」(חָפֵץ)の持つ意味と言えます。「ヘーフェツ」の愛・・この愛は、神が喜んで良いものを惜しみなく与えようとする愛です。そもそも天の父はその子どもたちに良いものを惜しみなく与えることを何よりも喜びとされる神です。どんな犠牲をも惜しまずに与えるこの神の愛の意志こそ「ヘーフェツの愛」なのです。
  • 主は、ご自身の民の犯した咎のために、主のしもべが代償的苦難(身代わりの死)を受けることを通して、その民の子孫を永遠に見ることができるという御旨を実現しようとされる預言がなされています。ここでは明らかにダビデ契約(Ⅱサムエル7:13,16、詩篇89:4、同132:12)の成就が考えられます。

2. 主のしもべの満足

  • それゆえ、「彼(主のしもべ)は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する」(11節)のです。ちなみに、新改訳は「苦しみのあとを見て」と訳していますが、新共同訳では「苦しみの実りを見」と訳し、口語訳(フランシスコ会訳、バルバロ訳)では「苦しみにより光を見て」と訳しています。原文には、主のしもべが「何を見た」のか、その対象となる語彙(目的語)がありません。ですから、いずれの聖書もその目的語になるものを補てんして訳しています。
  • 主のしもべが苦しみを通して見たものは何か。その解釈はさまざまであったとしても、苦しみの結果として、主のしもべが「満足する」「満ち足りる」(「サーヴァア」שָׂבַע)ことには変わりありません。この満ち足りる気持ちは、イェシュアが十字架に掛かられる前に弟子たちに語ったことばー「女が子を産むときには、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んでしまうと、ひとりの人が世に生まれた喜びのために、もはやその激しい苦痛を忘れてしまいます。」(ヨハネ16:21)という、子を産んだ母のイメージに例えられます。

3. 主のしもべは多くの者を義とする







2014.11.11


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