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約束された喜びのおとずれ

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2. 約束された喜びのおとずれ

はじめに

  • ローマ人への手紙の第二回目の学びです。前回は、自ら好き好んでキリストのしもべ(奴隷)となったパウロを紹介しましたが、そのパウロが自分を紹介する時に、単に、キリスト・イエスのしもべとして紹介しただけでなく、神の福音のために特に選び分けられた自分、その神の福音を宣べ伝えるという特別な働きのために召された自分を紹介しています。パウロという人は、神の福音のため、その福音を宣べ伝えるという目的のためにのみ自分が存在しているという強烈な自己意識、目的意識をもった人です。
  • ところで、2節の初めを見ますと、ダッシュ「-」が引いてあって(原文にはありませんが)、6節の終わりも同じくダッシュが引いてあります。これは本来、括弧の中に入ることばで、1節の神の福音というものがどういう内容かを少しだけ説明するために付け加えられたのです。今回は、この箇所に目を留めてみたいと思います。

【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙1章2~4節
2 ──この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

  • 日本語で福音の「福」というのは「幸い」という意味です。また「音」というのは「おとずれ」という意味ですから、福音とは「幸いなおとずれ」ということができます。よきおとずれと言っても、人によってその理解はそれぞれ異なります。受験生にとってのよきおとずれとは「合格通知」、働く者にとってのよきおとずれとは「採用通知」です。ある病人にとっての良きおとずれとは、良い医者がいるとか、良い薬があるという情報です。また、失業者にとっては仕事があるという情報だけでも福音なのです。
  • ところで、パウロは神の福音とは何か、神が私たち人間にもたらす幸いなおとずれとは何か、これをパウロは説明しようとするのです。神の福音、それは端的に言うならば、それはイエス・キリストご自身だということです。福音の中心とは、3節に記されているように、御子に関することなのです。したがって、イエス・キリストを知らずして神からのよきおとずれを知ることはできないということです。

1. 預言者たちを通して、前から約束されていた方

  • 2節に「-この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもの」とあります。パウロは、神のよきおとずれが決して思いつきや気まぐれなものではなく、長い時間をかけて、多くの預言者たちを通して約束され、準備されて来たことが、はじめてイエス・キリストにおいて実現したものであると言っています。「約束されたものが・・実現した」と私たちは軽く考えますが、これはすごいことなのではないでしょうか。人間の世界では、約束されたことが必ずしも実現されるとは限りません。結婚の約束、事業の契約でさえも破棄されることがあります。口約束は当てにはなりません。なぜなら、人間は真実ではないからです。そのときそのときの環境や状況、また人間の判断次第で変わってしまいます。真実とは、約束したことは必ず守るという所に表されます。人間は不真実であっても、神は常に真実です。約束は必ず果たされ、実現されるのです。イザヤ書55章に次のように記されています。

【新改訳改訂第3版】イザヤ書55章8~13節
8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。──【主】の御告げ──
9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。
10 雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える。
11 そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。
12 まことに、あなたがたは喜びをもって出て行き、安らかに導かれて行く。山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。
13 いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは【主】の記念となり、絶えることのない永遠のしるしとなる。」

  • 旧約聖書を読むと、その一番最初に、初めに神が天と地を造られたこと、そして創造の冠としてご自身のかたちに似せて人間をお造りになったこと、その人間に自由意志が与えられていたことが記されています。その自由意志をもって神と交わり、神に従うことを神が良しとされました。ここに人間の尊厳があります。ところが、人間は悪しき者の誘惑に惑わされ、自分の意志によって神のみこころに逆らい、悪しき者の誘いに自分の意志で従ったのでした。これが罪のはじまりです。人間が神の御手から離れ、合法的にサタンの支配の中に陥ったのです。そんな私たち人間を救う計画を神は持っておられました。その最初の預言が創世記3章15節だと言われています。神は、人間を惑わし罪に陥れたへびに対して、こう言いました。

「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

  • 神はアダム以来、人間を救うために、やがてひとりの人物(アブラハム)をこの世に召し出して、神を信じることを教えます。そしてその子孫(イスラエル)をエジプトの圧制から救い出して、神の民を通して、神とはいかなるお方であるのか、人間とはいかなる者なのか、その本質をさまざまな出来事を通して考えます。それだけでも神は長い時間をかけられました。そして人間が自分の力では決して救われないことを教えるのです。しかしそうした長い歴史の中でも、神の救いのご計画は、いろいろな時代に、神の預言者たちを通して、より確かに、より具体的なものとして約束されてきました。そしてその約束は、今やイエス・キリストによって実現したのです。ですから、私たちは、イエス・キリストに目を向けるべきです。イエス・キリストがなされたこと、イエス・キリストが語られたことに心を留めましょう。
  • イエス・キリストは当時のユダヤ人に次のように言われました。

「あなたがたは、聖書(旧約)の中に永遠のいのちがあると思って調べています。この聖書は、わたしについてあかししているのです。」(ヨハネ5:39)

  • 聖書の中心はイエス・キリストです。イエス・キリストが神からの良きおとずれそのものなのです。
    ですから、イエス・キリストに私たちは目を向けなければなりません。目だけでなく、耳も傾けましょう。キリスト教の周辺的な知識ではなく、イエス・キリストご自身に焦点を合わせましょう。

2. ダビデの子孫から生まれた方(ナザレのイエス)

  • パウロはここで、イエス・キリストのことを二つに分けています。その一つは、イエス・キリストは肉によれば、ダビデの子孫から生まれたということ。もう一つは、聖い御霊によれば、この方は神であり、神の子だということです。それは死者の中からの復活によって証明されたとあります。
  • 第一に、イエス・キリストという方は、肉によれば、ダビデの子孫から生まれたということです。神はダビデに対して、あなたの後の子孫の一人が永遠の王座に着き、イスラエルの王となり、全世界を支配すると約束しました。その約束が乙女マリヤの胎を通して、ナザレのイエスとして実現しました。ここで重要なことは、神が人となってくださったという事実です。これが福音の大切な面です。
  • 人はしばしば「私の悩み、私の苦しみはだれも分かってくれない」と嘆きます。もしひとりでも自分の苦しみを理解し、分かってくれる人がいるなら、それだけでも随分と違うと思いますが、私たちの心の本当の苦悩は、たとえ自分の夫や妻であったとしても理解できない部分があるものです。なぜなら、全く同じ経験をすることができないからです。蟻を見て、蟻のことを理解するためには、人間が蟻になって、蟻の世界に行って、蟻と同じことを経験して、蟻の喜怒哀楽をなめて初めて蟻の理解者となり得ます。
  • 私たちの魂の奥底にある苦悩というものは、神にしか分からない部分があるのです。しかし幸いなことに、その神が人間となって私たちと同じ苦悩をなめてくださった方がイエス・キリストなのです。ですから、イエス・キリストを自分の友として持つことは何とすばらしいことでしょうか。イエス・キリストは神の在り方を捨てないとは考えないで、つまり、神の力、その位を捨ててまで、そこまでへりくだってくださって、私たちのところに来てくださった方です。ですから、イエス・キリストは私たちの弱さをよく御存じです。私たちの心の傷や嘆きや問題、苦悩をよくご存じなのです。イエス・キリストはこう言われました。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書11章28~30節
28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

  • 何というすばらしい約束でしょうか。この約束の確信は、イエス・キリストが私たち人間の経験するすべての苦悩を経験したゆえに与えられるのです。

【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙4章15~16節
15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

  • 多くの人々がこの「ナザレのイエス」につまずきました。神が人間になられたということにつまずいたのです。イエスの弟子となったナタナエルという人も、弟子になる前には、「ナザレから何のよいものがでるだろう。」と言いました。そんな田舎から全世界を支配される王など出るはずがないと思っていたのです。
  • 使徒パウロも回心する前には、ナザレのイエスという田舎出の者が、なにやら自分は神の子であると言ったために、神を冒涜した罪で十字架につけられたことを聞いていました。ところが、あのダマスコで天からの強烈な光に照らされた時、彼は何を聞いたでしょうか。「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。」「主よ。あなたはどなたですか。」「わたしはあなたが迫害しているナザレのイエスだ。」(使徒22章8節)。これを聞いたとき、彼は頭にハンマーを叩きつけられた思いをしたことでしょう。パウロにとって、十字架の上で死刑にされた「ナザレのイエス」と旧約聖書で預言されてきたメシアとはどうしても結びつかなかったのです。
  • 人となられた神、ナザレのイエス、この方は十字架の上で人のために自分のいのちを捨ててくださったのです。この方、つまりイエス・キリスト(ナザレのイエス)を知る時、私たちの人生はパウロと同じように変えられるのです。聖書の言う通り、この方を知り、この方と交わることなのです。

3. 聖なる御霊によれば、神の子として示された方

  • 人となってこの世に来られた「ナザレのイエス」は、「聖なる御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方」だとあります(4節)。これはイエスが復活したことによって初めて神の子になったという意味ではありません。それまでもイエスは神の子でした。しかし復活ということにおいて、特別にイエスが神の子として振る舞ったということです。これはこの世のだれもまねることのできないことだからです。
  • この世界には五大聖人と言われる者たちがいます。ギリシアの哲学者ソクラテス、イスラムの教祖マホメット、中国の孔子、インドの釈迦、そしてイエス・キリストです。この中で、他の聖人にはないものがイエス・キリストにはあるのです。それは死から復活されたということです。イエス・キリストにおいて、人類の最大の敵である死が打ち破られています。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。あなたはこのことを信じますか。」(ヨハネ11:25)。
  • 私たちは例外なく、肉体が朽ち果て、死というものを経験しますが、やがてイエス・キリストが再臨されるとき、私たちは朽ちることのない栄光のからだが与えられてよみがえるのです。私たちは、死によって終わるのではありません。死は新しい世界への入り口なのです。ですから、ダビデは詩篇の中でこう歌っています。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩篇23篇4節)
  • 復活された主が私とともにいてくださるのです。たとえ死の陰の谷を歩くことがあっても、です。だれでも死の陰の谷を通らなければなりませんが、その時、「私は恐れません。主が私とともにおられますから」と確信して言えるでしょうか。そのような死の迎え方ができるなら、あなたは死に勝利した者と言えます。死からよみがえり、今、イエスの御名という、すべてのものの上にある支配と権威を与えられて、天の御座において私たちをとりなしておられる方がおられることーこれが聖書のいう福音です。
  • パウロはこの福音を伝えるために、使徒という特別な使命を与えられました。「それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためなのです。」(ローマ1:5)。

1994.9.18


2017.1.19


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