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約束の地入国の準備

民数記の目次

23. 約束の地への入国の準備

【聖書箇所】 26章1節~27章23節

はじめに

  • 民数記26章から、神の民が約束の地の入国に向かっての準備が本格的に始まります。今回の瞑想は、26章と27章からその準備が具体的に何であったかをフォーカスしたいと思います。準備と言っても、人間側が何かを考えて準備することはひとつもありません。すべて神がモーセを通してその指示が与えられます。
  • 26章と27章に見られる共通するひとつの動詞があります。それは「ツァーヴァー」(צָוָה)です。旧約聖書では496回使われていますが、26, 27章では5回使われています(26:4/27:11, 19, 22 ,23)。いずれもこの動詞はすべて強意形のピエル態で使われており、「命じる、任命する、定める」という意味です。この動詞とその内容が、この二つの章の内容を区分する格好になっています。

1. 再度の人口調査

  • 26章4節に「主が命じられた(צָוָה)ように、20歳以上の者を数えなさい。」とあります。40年間の荒野放浪の間に、第一世代の者たちは、カレブとヨシュアを除いてすべて死に絶えました。今回、人口調査する対象は第二世代ということになります。彼らはイスラエルにあって軍務につく者たちであり、やがて約束の地の相続地を賦与される者たちです。
  • 再度の人口調査によって、見えてくることは全体の人口調査の時の総人数と比較するとわずかですが減少しています。部族においては減少した部族が5部族、増加した部族は7部族です。もし、25章に記されているように、神にバアルペオル事件とジムリ事件がなければ24000人増えて、全体としては増加ということになりましたが、そうはなりませんでした。
  • 第一世代の多くの者たちは約束の地を目前にしながら、40年間荒野をさまようことになったのは不信仰のゆえです。神に対する不信仰は神の約束を自分のものとすることができません。これは今日においても然りです。父なる神はキリストによって、天にあるすべての霊的な祝福をすでに与えてくださっています。それはキリストの栄光の富とも言えるものです。すでに与えられているにもかかわらず、その栄光の富を味わうことができていなければもったいないことです。信仰によって賦与された神の良きものを掘り起こして、それを自分のものとすることができるのです。その意味において、民数記の出来事は私たちに反面教師として多くのことを物語っています。
  • 神の約束を与えられながらも、不信仰のゆえに多くの者がそれを手にすることなく世を去った厳しい事実は、逆に、信仰の素晴らしさを浮き彫りにさせています。カレブとヨシュアはその信仰のモデルです。

2. 相続地は必ず与えられるという保証の定め

  • 27章1~11節には、約束の地の相続についてです。子どもに男の子がいなかった場合に、その父に約束された嗣業はどうなるのか、与えられるか与えられないのか、という問題が提起され、神の定めが示された箇所です。
  • 11節の後半に「これを、主がモーセに命じられた(צָוָה)とおり、イスラエルの定まったおきてとしなさい。」とあります。「これを」というその具体的な内容は、相続地は必ず保証され、一次的、二次的な相続権を持つ者がいなくても、一番近い血縁の者に与えるというのが、神が命じたことでした。約束の地を与えるという約束が神の真実においてなされるということが強調されているように思います。

3. 指導者の交代(モーセからヨシュアへ)

  • いつの時代においても指導者の交代はその団体(群れ)にとってひとつの危機です。ところが、この点において、神は他の事柄以上に厳重な指示を与えています。
  • 指導者の交代の出来事を記している27章12節~23節の箇所において、「ツァーヴァー」(צָוָה)が3回重ねられています。19節と23節では「任命せよ」と訳されています。22節では主がモーセに「命じられた」と訳されています。モーセに代わる次の指導者が公前において示され、モーセから直接に按手されることによってその権威が譲渡されました。
  • 偉大な指導者であるモーセと彼の後継者ヨシュアの違いは、モーセが祭司たちが管理する会見の幕屋にいつも出入り自由でしたが、ヨシュアの場合は祭司エルアザルの許可がなければ入ることはできなりました。いわば、政治と宗教がはっきりと独立したものとなったということです。戦いの領域においては、神は直接ヨシュアに語っていますが、礼拝に関するすべてのことはすべて祭司たちの管理の下に置かれるということです。ヨシュアとて幕屋の至聖所に無断で入ることは許それませんでした。そこがモーセと大きく異なる点です。
  • いずれにしても、新しいイスラエルの指導者ヨシュアは急に抜擢されたのではなく、モーセの従者としての長い期間に及ぶ準備があったことを忘れてはなりません。ヨシュアはモーセの下で人間を本質を見抜き、また指導者としての苦しみを垣間見てきたはずです。そうした経験の準備があってこそ、イスラエルの民を約束の地へと導くことができたのです。彼にとっての荒野は神に信頼して従うという神の次の段階の使命のための重要な備えであったのです。

2012.2.24


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