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紅海渡渉の経験

11. 紅海渡渉の経験

【聖書箇所】 13章17節~14章31節

はじめに

  • 神はご自身の民を造り出すために、単に、彼らをエジプトから脱出させただけでなく、紅海渡渉の経験をさせることで、明確にエジプトに対する訣別経験を与えようとされます。それが紅海渡渉という出来事です。

1. 「創世記」との連続性

  • モーセが出エジプトする際に「ヨセフの遺骸を携えて来た」(13:19)ということに触れておきたいと思います。これは「創世記」と「出エジプト記」の連続性を裏付けるものです。モーセはヨセフと個人的に会ったこともありませんし、ヨセフの父祖であるヤコブ(イスラエル)、イサク、アブラハムとも接触がありません。しかし、ヨセフの神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」として啓示されたのはモーセが初めてです。出エジプトの出来事は歴史を導く神の啓示を知るための重要な経験でした。それゆえ、モーセこそ、神の民がいかにして成立したかを記す「出エジプト記」、そこへ至るご計画のはじまりとしての「創世記」、および、神と神の民との正しいかかわりを規定する「レビ記」、そして神の民としての訓練を記した「民数記」、さらに神の民が自立するための主体的決断の重要性を記した「申命記」を書き表すのに、最もふさわしい人物だと言っても過言ではありません。
  • 「モーセ五書」(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記からなる五書)の全体の主題は「神の民の確立」です。その基礎となる中心的な歴史的事実は「出エジプトの経験」です。神の民であるイスラエルは、その経験へ導かれ、そこからはじまっているのです。

2. 近道ではなく、迂回させる神

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  • 13章17節に「さて、パロがこの民を行かせたとき、神は、彼らを近道であるペリシテ人の国には導かれなかった。」とあります。その理由は、民が戦いをしかけられたら、脱出したことを悔いてエジプトに帰っていくかも知れないと神が思われたからでした。そこで、神は民に回り道をさせました。
  • 神は私たちを近道へと導かず、あえて回り道をさせる方です。このことを神の民は知る必要があります。神の導きは最善ですが、私たちはその最善がなかなか見えないのです。しかし見えようと見えまいと、神は民を導かれるのです。
  • 近年、出エジプトの新たな経路が従来のものと異なっていたという説があります。新ルートについては、以下のとおり。

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出エジプト記 13章21 節
【主】は、昼は、途上の彼らを導くため、雲の柱の中に、夜は、彼らを照らすため、火の柱の中にいて、彼らの前を進まれた。彼らが昼も夜も進んで行くためであった。

  • 上記のみことばには、神が民を導くための不思議な表現があります。「雲の柱」と「火の柱」ということばです。それらはいったいどんなイメージでしょうか。昼は「雲の柱」の中に主がおられて彼らを導かれました。夜は「火の柱」の中に主はおられて彼らの進み行く道を照らしたのです。とても不思議な光景です。イメージはよくつかめませんが、「雲の柱と火の柱」によって導かれたということは、「神が民と共におられたということ」、そして「神の導きは民から離れることなく絶えずあったということ」を表しています。
  • この「雲の柱、火の柱」は神の民の導き手として彼らの前を進み、神ご自身の臨在を明らかにしていたのです。エジプトから救い出された民たちは神に導かれて【回り道】させられるのですが、どこへ行ったかといえば、神は山間の狭い険しい道へと導きました。そこでは前方は紅海、左右は山々がそびえ立ち、いわば地形的に言えば、彼らを閉じ込めるような「袋小路」の場所でした。
  • 主はその導きの真意をしもべモーセに仰せられました。パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった。』と言うだろう。しかし、わたしはパロがイスラエルのあとを追うならば、パロとその全軍勢を通してわたしの栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる」と。(3~4節)
  • パロとその全軍勢はイスラエルを追跡して、紅海の海辺で宿営しているイスラエルに追いつき近づいてきたとき、なんとイスラエルを導いてきた先頭の雲の柱が位置を変えたのです。つまりイスラエルの前から後ろに移動してイスラエルの陣営とエジプトの陣営の間に入りました。そしてその雲の柱は真っ黒な雲となったために、エジプトの軍勢は近づくことができませんでした。つまり、雲の柱はイスラエルの盾となり、敵が近づけないようにしたのです。
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  • そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、主は一晩中強い東風を吹かせて、海の水を退かせ、海を陸地とされたのです。イスラエルはその海の中の道を進んでいきました。その間、水は彼らのために右と左で壁となっていたのです。
  • 渡り終わったあとに、エジプト軍が追いかけるように海の中に入って行きました。全軍が海の中に入ったとき、モーセが再び手を海の上に差し伸べたとき、海が元の状態に戻りました。エジプト全軍勢は壊滅したのです。「残された者はひとりもいなかった」と聖書は記しています。この出来事によって、イスラエルの民がもう決してエジプトに帰ることができないように神はされたのでした。
  • だれがそのようなことを考えることができたでしょうか。彼らが前は海、横は山々、そうした状況に追い込まれたとき、エジプトから脱出した民たちは「ここで死ぬよりはエジプトにいたほうがましだった」(14:12)とモーセに叫んでいたのです。ところがどうでしょう。神の導きは彼らの思いを、予想をはるかに超えていました。このようにしてイスラエルの荒野の旅は始まっていくのです。

3. 神の導きは神の民(子ども)に与えられている特権

  • 出エジプト記13章17節と21節に出てくる「導く」という動詞は「ナーハー」(נָחָה)で、出エジプト記では、他に15章13節と32章34節に出てきます。旧約で39回。そのうち18回が詩篇で用いられており、詩篇特愛用語の一つです。その多くは「導いてください」という嘆願の祈りの中で使われていますが、23篇3節、および、78篇14節と53節には、肯定的に神の恩寵としての導きが述べられています。
  • 私たちは、日毎に、神の導きを経験しているかどうか、神が自分の生涯に備えられた道を歩みそこなっていないかどうかを点検する必要があります。なぜなら「主は、…御名のために、私を義の道に導かれ(נָחָה)ます。」とあるとおり、主の導きは神の子どもに与えられた特権であり、実り多い生涯を送れるようにと神が愛のうちに備えてくださったものだからです。「御名のために」とは、「神ご自身が、ご自分の名にかけて」という強い責任を表わすことばです。
  • また、イザヤ58章11節には「主は常にあなたを導き」とあります。「常に」とは「継続的に」という意味です。私たちが意識してもしなくても、神の導きは継続的です。父である神は、本質的に与えることを喜びとする神であり、子である私たちの益のために、つまり、ご自分の聖さにあずからせようとして懲らしめることをする方です (ヘブル12:10)。大切なことは、神ご自身が私たちを導きたいと切に望んでおられるということを知ることです。

2011.12.14


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