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純金の香壇

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11. 純金の香壇

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【聖書箇所】出エジプト記30章1~10節

画像の説明

ベレーシート 

  • シリーズ「神の御住まい」についての第十回目の学びです。前回は「純金の燭台」(「メノーラー」מְנוֹרָה)について取り上げました。インターネットではいろいろな「メノーラー」の画像を見ることができます。ところが、その支柱を見ると、聖書が記述しているような「アーモンドの花の形をした節と花弁」のデザインでなく、イスラエルの12部族を表すものがデザインされています。これでは「メノーラー」が意味している真理が伝えられません。アーモンドの木が重要なのです。
香壇(1).JPG
  • 幕屋に置かれているすべての器具の規格―形、寸法、デザイン、素材―はすべて隠された意味をもっています。人間が勝手にデザインを変えたりすることは許されることではありません。今回取り上げる「金の香壇」は神に対してかおり高い香をたくためのものです。その「香」は同量の四種類の香料(ナタフ香、シェヘレテ香、ヘルベナ香、乳香)を用い、さらに特別な調合法に従って(原文では「塩」を意味する語彙が使われています。それによって煙が勢いよく立ち上るのかもしれません)作られるものです。それを自分自身のために作ったり、それと似たものを作ったりして、香りを楽しもうとする者はだれでも、その民から断ち切られるとされています(出エジプト30:37~38)。なぜなら、その理由は香壇から立ち上る香りが象徴していることと密接な関係があるからです。
  • 「かおり高い香をたく祭壇」、つまり「香壇」(英語The Alter of Incense/ヘブル語「ミズベーアッハ・ハックトーレット」(מזְבֵּחַ הַקְּטֹרֶת)については、出エジプト記30章1~10節に記されています。

【新改訳改訂第3版】出エジプト記30章1~10節
1 あなたは、香をたくために壇を作る。それは、アカシヤ材で作らなければならない。
2 長さ一キュビト、幅一キュビトの四角形で、その高さは二キュビトでなければならない。その一部として角をつける。
3 それに、上面と回りの側面と角を純金でかぶせる。その回りに、金の飾り縁を作る。
4 また、その壇のために、その飾り縁の下に、二つの金環を作らなければならない。相対する両側に作らなければならない。これらは、壇をかつぐ棒を通す所となる。
5 その棒はアカシヤ材で作り、それに金をかぶせる。
6 それをあかしの箱をおおう垂れ幕の手前、わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前に置く。※1
7 アロンはその上でかおりの高い香をたく。朝ごとにともしびを整えるときに、煙を立ち上らせなければならない。
8 アロンは夕暮れにも、ともしびをともすときに、煙を立ち上らせなければならない。これは、あなたがたの代々にわたる、【主】の前の常供の香のささげ物である。※2
9 あなたがたは、その上で異なった香や全焼のいけにえや穀物のささげ物をささげてはならない。また、その上に、注ぎのぶどう酒を注いではならない。
10 アロンは年に一度、贖罪のための、罪のためのいけにえの血によって、その角の上で贖いをする。すなわち、あなたがたは代々、年に一度このために、贖いをしなければならない。これは、【主】に対して最も聖なるものである。」


※1
●「あかしの箱をおおう垂れ幕の手前」とは「聖所」、「わたしがあなたとそこで会うあかしの箱の上の『贖いのふた』の手前」とは「至聖所」と考えられます。いったい「香壇」はどちらにあるのでしょうか。出エジプト記40章26~27節には「それから彼(モーセ)は、会見の天幕の中の垂れ幕の前に、金の壇を置き、その上でかおりの高い香をたいた。【主】がモーセに命じられたとおりである。」とあります。ところが、ヘブル人ヘの手紙9章2~4節ではこう記されています。
「2 幕屋が設けられ、その前部の所には、燭台と机と供えのパンがありました。聖所と呼ばれる所です。3 また、第二の垂れ幕のうしろには、至聖所と呼ばれる幕屋が設けられ、4 そこには金の香壇と、全面を金でおおわれた契約の箱があり、・・」

●これらの記述から、「香壇」の置かれた位置についてどのように理解すれば良いのでしょうか。この問題について、ある人の解釈は「香壇は年に一度の贖いの日だけ至聖所に持って入った」としています。だれがそこに香壇を移動させたのでしょうか。至聖所には大祭司しか入ることができず、しかも香壇を運ぶには2本の棒で運ぶように指示されています。アロンひとりでそのことをしたとは考えられません。また他の人は「移動せずとも、聖所にある香壇から立ち上る煙が垂れ幕の上の隙間を通って至聖所に入っているので、至聖所を煙でおおうためには多くの香をたけば良い」とし、「それは至聖所に香壇があるのに等しい」という解釈です。しかしこの解釈は、レビ記16章12~13節の記述、「12【主】の前の祭壇(=香壇)から、火皿いっぱいの炭火と、両手いっぱいの粉にしたかおりの高い香とを取り、垂れ幕の内側に持って入る。13その香を主の前の火にくべ、香から出る雲のあかしの箱の上の『贖いのふた』をおおうようにする。彼が死なないためである。」という記述と矛盾しています。さらに他の人は、贖罪の日に大祭司アロンが香壇の器具である香炉(火皿)を携えて至聖所に入ったと解釈します。その香炉(火皿)を携えて入ることを指して、至聖所の中に「香壇」があると表現しているのだとしています。この解釈がもっとも自然のように思いますが、聖書はその辺りの詳しい説明をしていません。ちなみに、新改訳で「火皿」と訳しているヘブル語の「マフター」(מַחְתָּה)を、口語訳と新共同訳は「香炉」と訳しています。「火皿」と「香炉」は同じ原語ですが、訳語のイメージが私たちには異なります。

●香壇の位置が垂れ幕の外側なのか内側なのかという問題以上に重要なことは、そのどちらの側にあったとしても、香壇と主が臨在する至聖所はきわめて密接な関係にあったということです。特に、年に一度の「贖罪の日」には、香壇は重要な役割を果たしています。しかもこの日に香をたくのは大祭司アロンの務めでした。香壇と至聖所のきわめて密接な関係については、後ほど取り上げたいと思います。

※2
●7~8節には「朝ごとに」「夕暮れにも」とあります。一見、朝と夕はそれぞれ別の時間帯と考えがちですが、これはヘブル的修辞法(メリズム)のひとつで、「朝」と「夕」という対極的な語彙を用いて、「常に、絶えず、絶やすことなく」ということを表現しています。「常供の香りのささげ物」ということばがそのことを裏付けています。絶えることのない香の煙は、聖徒たちの祈り(あるいは賛美)を象徴しています。


1. 「香壇」の概要

(1) 形状とサイズ 

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  • 幕屋にある器具の中で最もサイズの小さいのが「香壇」と「パンを供える机」です。「香壇」は長さ1キュビト、幅1キュビト、そして高さが2キュビトですが、「パンを供える机」は長さが2キュビト、幅が1キュビト、高さが1キュビトで、いわば香壇をそのまま横にしたサイズです。ただし、机は香壇のように箱型ではありません。また、箱型の形では「契約の箱」が長さ2.5キュビト、幅1.5キュビト、高さが1キュビトです。幕屋本体の高さは10キュビトありますから、「パンを供える机」の高さはその1/10で、意外と低いのです。ちなみに、器具の中で最も大きなサイズは「青銅の祭壇」で、長さが5キュビト、幅が5キュビト、高さが3キュビトあります。「青銅の洗盤」と「純金の燭台」は寸法の指定がありません。
  • 「香壇」と「青銅の祭壇」の上面は正方形です。また、至聖所の空間も立方体であり、大祭司が着る装束のエポデの上の「胸当て」も正方形です。この「正方形」は、全イスラエル(幕屋の周囲には12の部族が宿営していました)、あるいは、「全世界」「すべての諸国の民」といった「普遍性」を意味しています。たとえば、エゼキエル書37章9節の「息よ。四方から吹いて来い」とか、イザヤ書11章12節の「地の四隅」という表現があります。特に、イザヤ11章12節では、終わりの日に、「主は、国々のために旗を揚げ、イスラエルの散らされた者を取り集め、ユダの追い散らされた者を地の四隅から集められる。」とあります。このように正方形は、全世界、普遍性を象徴すると同時に、神のご計画の最後のステージで現われる立方体の「新しいエルサレム」が示すように、神と人とが共に住む神のヴィジョンの完成を象徴しています。
  • また、「正方形」と関係する「」という数字もそれと似た意味を持っていると考えられます。幕屋の中での「四」という数字に関連するものとしては、以下のものがあります。

    幕屋の聖所をおおっている四枚の幕
    これは、キリストの目に見える外見と内にある本質を示唆しています。
    四色の撚り糸(白、青、紫、緋色)
    これは、キリストのご性質を示唆しています。
    ③青銅の祭壇と金の香壇に四隅にある四つの角
    神の力の普遍性を示唆しています。
    ④大庭の入口と至聖所の垂れ幕を掛ける四本の柱
    これは、知恵、義、聖め、贖いとなられたキリストを示唆。
    香壇でたかれる四つの最上の香料
    これは、代々の聖徒たちのすべての祈り(賛美)を象徴しています。

(2) 香壇の二つの金の環

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  • 契約の箱、青銅の祭壇、パンを供える机もみな四つの金の環が付いています。なぜ、香壇には二つの金の環しかついていないのでしょうか。考えられることは、後にイェシュアによって「恵みとまこと」が実現したとヨハネの福音書が記していることです(1:14, 17)。この「恵み」と「まこと」がワンセットで用いられている例は旧約で17回、詩篇だけでも7回(57:3, 61:7, 85:10, 86:15, 89:14, 115:1, 138:2)あります。新共同訳は「いつくしみとまこと」と訳しています。ヘブル語は「ヘセド」(חֶסֶד)と「エメット」(אֶמֶת)。あるいは、祈りの土台にあるイェシュアの血潮による罪の赦しと神との和解とも解釈できます。

(3) 材料

  • 香壇も香壇を運ぶ担ぎ棒も同様に、材料はアカシヤ材の上に純金をかぶせたものです。これは、契約の箱、パンを供える机、青銅の祭壇、および聖所の柱と板と同様に、人となられたイェシュア(アカシヤ材)が神の御子であることを表わすために、純金がかぶせられているのです。

2. 金の香壇が象徴していること

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  • 「香壇」から立ち上る煙が象徴しているのは聖徒たちの祈りです。その祈りを神にとりなすことが大祭司(祭司たち)の務めです。聖所の中にある「パンを供える机」「燭台」「香壇」はすべて密接な関連性を持っていると考えられます。「机」は永遠のいのちを与える天からのパンを、燭台はやみの世界に神のご計画を照らし出す天からの光を、「香壇」は神のご計画を実現させる祈りを象徴し、すべてが密接な関連性を有しています。したがって、「香壇」から立ち上る煙が象徴している聖徒たちの祈りとは、私たちが考えているような「祈り」ではありません。神のご計画が実現することにかかわる神のみこころ、神の御旨とその目的に深くかかわる「祈り」と言えます。「香壇」に象徴される「聖徒たちの祈り」が、神のご計画と神の約束が実現することと関連しているとすれば、その「祈り」とはどんな祈りなのでしょうか。使徒パウロはローマ人への手紙8章26~28節で次のように述べています。

【新改訳改訂第3版】ローマ人への手紙8章26~28節
26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

  • ここで語られている文脈を考慮する必要があります。「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます」とある「助け」とはどのような助けなのでしょうか。それは私たちのからだが完全に贖われることについての助けです。つまり、私たちが朽ちないからだに変えられることについての助けです。キリストの復活はそのことの初穂でした。キリストの復活が初穂であったということは、それに続く復活があるということです。キリストを信じる者に約束されている「朽ちることのないからだ」「復活のからだ」が与えられなければ、私たちは永遠に神の子どもとして神の家に住むことはできません。私たちの信仰とは、このような目に見えない事柄がやがて将来に実現されることを待ち望む信仰なのです。ところが、将来私たちに啓示されようとしている栄光(=重い事柄)を、忍耐をもって待ち望むことにおいて私たちは弱さをもっているのです。ですから、「御霊も同じようにして」、つまり、神が将来私たちに実現してくださろうとしている同じ目的のために、御霊が助けてくださるのです。
  • 具体的には私たちの「祈り」においてです。使徒パウロが指摘しているように、「私たちは、どのように祈ったらよいかわからない」者なのです。そのことを私たちは正直に認めなければなりません。「祈りの人だ」と自他共に認める人であっても、このパウロの言う意味が分かっていないかもしれません。真に祈らなければならないことが何であるかを知らずに、私たちの周辺の祈りの課題を熱心に祈っているかもしれません。ですから、信じる者のうちにいつも寄り添ってくださっているキリストの御霊ご自身が「言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださる」とあるのです。さらにパウロは続けて、「人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。」とも述べています。
  • 御父のみもとから遣わされた御霊が聖徒のためにとりなして祈ってくださるのは、私たちが神のみこころに従って祈ることができないからです。28節に記されている有名なみことばを、私たちは何と自分中心に理解していることでしょうか。この28節は29節と結びついています。それによれば、「神は、あらかじめ知っている人々」、すなわち、28節の「神を愛する人々」、「神のご計画に従って召された人々」を「御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めたからだ」としています。その神の目的を実現させるために御霊がとりなしをしておられるというのです。なんと意味の深い話でしょうか。何と大きなスケールでしょうか。私たちの助け手である御霊のとりなしの祈りは、神のご計画とみこころと、その御旨と目的にそった祈りであり、それが絶えず主の前に積み上げられているのです。
  • 今回は取り上げませんが、イェシュアが弟子たちに教えられた「主の祈り」こそが、この視点での理解を必要としているのです。「御国が来ますように」との祈りの中に、将来、私たちに啓示されるようとしている栄光があるのです。「将来、私たちに啓示されようとしている栄光」に比べるならば、今の時のいろいろな苦しみは取るに足りないともパウロは言っています。「将来、私たちに啓示されようとしている栄光」とは、「御国が来ること」を意味します。どこに来るかと言えば、「この地上に」です。その時、私たちの身体は「朽ちないからだに変えられる」のです。別の言葉で表現するならば、それは神が預言者エレミヤを通して約束された「新しい契約」が実現することでもあります。そのための祈りこそ、代々の聖徒たちが祈るべき祈りでなければならないはずです。自分のために、あるいは自分とかかわる周囲にある問題のためには一生懸命に祈ったとしても、主のご計画にかかわる祈りが私たちにはなかなかできません。なぜなら、神のご計画の実現のために御国がこの地に来ること、神のみこころがこの地になること、つまり、神が天地の基が置かれる前からあらかじめ定められていたご計画について、私たちが無関心であり、無知だからです。神があらかじめお立てになったご計画はキリストの再臨なしには実現しません。ところが私たちの多くは自分の事に忙しくて、神のご計画に対しては無知であり、無関心なのです。ということは、キリストの再臨に対しても無知であり、無関心であるという弱さを自ら証明していることになります。そして、御国の福音の目指すところから離れているのです。御霊のとりなしがなされているのはそのためです。
  • 新しい契約」の内容とは何でしょう。結論を先に言うなら、それは私たちが御子のかたちと同じ姿に変えられるということです。「新しい契約」はすでに預言者エレミヤによって預言されています(エレミヤ書31:33~34)。

【新改訳改訂第3版】エレミヤ書31章33~34節
33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

  • この「新しい契約」については、新約のヘブル人への手紙の著者が詳細に書き記しています(8:8~13、10:16~17)。その内容は実に驚くべきものです。

    第一に、主の律法が神の民の心に記されるということです。肉のゆえに、神の律法の要求に完全に答えることのできなかった者たちの心に神の律法が書き記されるとは、主の律法の要求が可能となるからだに変えられているということを意味します。

    第二に、人々はみな主を知るようになります。人から教えられる必要がなくなることを意味しています。メシア王国においては、人々が自ら主の教えを求めて、世界中からメシアのおられるエルサレムに流れて来ます。なぜならそこには消えることのない栄光の光「シャハイナ・グローリー」があるからです。

    第三は、主は私たちの咎を赦し、私たちの罪を二度と思い出すことなく、完全に神の記憶から消し去ってくださるということです。この「新しい契約」を理解するためには、おのずと、私たちが自分の力で罪の力から救われることはできないという事実と真正面から向き合うことになります。自分の力を頼ろうとしてもそれは徒労に終わることを教えるために、神は古い契約(シナイ契約)を結ばれました。使徒パウロがこの古い契約のことを「死の務め」と呼んだのはそのためです(Ⅱコリント3:7)。もし自分の努力によって多少なりとも聖くなることができるという思いが少しでもあるなら、その人は古い契約にある「死の務め」の下で生きているということになります。しかしその「古い契約」は、イェシュアの十字架の死によってすでに完全にその務めをすでに終えているのです。その務めを終わらせた方が「新しい契約」を約束しているのです。

    「新しい契約」は「御霊の務め」とも呼ばれ、私たちを永遠に生かすことのできる契約です。ただしそれは完全に神の力によって実現するもので、やがて主が再臨された後に、その力が十全に現わされるのです。「新しい契約」を信じる者はその望みによって救われているのです。そのための祈りと賛美こそ、香壇から立ち上る煙が象徴しているものなのです。


  • この「新しい契約」は直接的には(第一義的には)、イスラエルの家(北イスラエル)とユダの家(南ユダ)、つまりイスラエルの全家と結ばれるものですが、異邦人である私たちはイェシュアこそ救い主であることを信じることで、この契約に接ぎ木された立場にあります。イスラエルの全家と置き換えられたのでは決してありません。この新しい契約は、イェシュアの初臨の時にイスラエルの民がイェシュアをメシアであることを拒絶したために延期となり、先延ばしにされています。今、この契約にあずかっているのは、キリストの教会のメンバー、つまり「イェシュアをメシアと信じるユダヤ人たちと、同じくイェシュアをメシアと信じる異邦人クリスチャンたち」です。
  • やがてイェシュアが空中再臨という形で戻って来られる時に、キリストの花嫁である教会のメンバーは空中に引き上げられ、ある者は死からよみがえり、ある者は瞬時にして、それぞれ朽ちないからだに変えられます。しかし、その枠にいない神の選びの民であるユダヤ人たちのために最後の神のあわれみが示されます。それはキリストが地上再臨される前に、神は大患難時代というこれまでにない大試練を通して彼らの目を覚まさせ、「恵みと哀願の霊」を注ぐことでイェシュアこそメシアであったことを悟らせます。そうして彼らは神に立ち返ることができるのです。そのプロセスにおいて、それまで主の御前に積み上げられてきた「聖徒たちの祈り」が聞かれるという形でこのことが実現するのです。その様子をヨハネが黙示録の中で伝えています。黙示録8章1~5節に注目したいと思います。
  • ヨハネの黙示録8章によると、第七の封印が解かれて七つのラッパを吹く御使いが登場し、この地上に神のさばきがなされるのをヨハネは幻によって見ています。1〜5節はそのさばきの序奏的な部分です。

8:1 ⼩⽺が第七の封印を解いたとき、天に半時間ばかり静けさがあった。
8:2 それから私は、神の御前に⽴つ七⼈の御使いを⾒た。彼らに七つのラッパが与えられた。
8:3 また、もうひとりの御使いが出て来て、⾦の⾹炉を持って祭壇のところに⽴った。彼にたくさんの⾹が与えられた。すべての聖徒の祈りとともに、御座の前にある⾦の祭壇の上にささげるためであった。
8:4 ⾹の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの⼿から神の御前に⽴ち上った。
8:5 それから、御使いは、その⾹炉を取り、祭壇の⽕でそれを満たしてから、地に投げつけた。すると、雷鳴と声といなずまと地震が起こった。

  • 小羊が第七の封印(最後の封印)を解いたとき、天には静けさが訪れます。それは嵐の前の静けさです。この静けさは「半時間ばかり」です。それは、反キリストの七年間の支配の丁度半分にあたる後半の三年半の始まりに当たります。この間、天においては静けさがありますが、おそらく地上では反キリストがやりたい放題のことをしているものと思われます。前半の三年半が終わって、やがて反キリストがその正体を表わす後半の三年半は、神のさばきを執行するための七つのラッパが御使いたちに与えられます。いよいよ地上における未曾有の大患難時代が訪れるのですが、それはもうひとりの御使いが金の香炉を取り、祭壇の火でそれを満たしてから、地に投げつけることではじまるのです。沈黙と静けさは破られ、「雷鳴と声といなずまと地震が起こった」のです(預言的完了形)。
  • 御使いが「香炉を地に投げつけた」⾏為の真意は、聖徒たちの祈りが聞かれたことを意味します。それは神がイスラエルに対して約束された「新しい契約」を実現させるために、未曾有の大患難を通して彼らを神に立ち返り、その「新しい契約」に彼らを与らせるためです。つまり、それは神のあわれみとしての計らいです。神の民を立ち返らせ、ご自身のもとに集める最後のチャンスでもあるのです。この視点から終わりの日における「大患難」を解釈しなければなりません。

3. 「新しい契約」の仲介者である大祭司イェシュア

  • 「新しい契約」について、その契約の仲介者となる大祭司イェシュアがなされたことについて確認しておきたいと思います。旧約では大祭司アロンだけが年に一度、「贖罪の日」(テシュレーの月の第10日目が「大贖罪日」です。その五日目から一週間にわたる「仮庵の祭り」になります)に至聖所に入って自分と全イスラエルのための罪の贖いをします。なにゆえに、年に一度なのでしょうか。それは、罪の贖いの効力が一年しかもたなかったからです。つまり、毎年毎年贖いをする必要のある不完全な贖いだったのです。ですから、毎年(そのたびに)、贖いのために用いられるすべての器具をきよめ、また大祭司とその子どもたち、そしてイスラエルの民が知らずに犯した罪も含めて、その罪の贖いのために雄牛とやぎの血を携えて至聖所に入り、「贖いのふた」にそれを注がなければなりませんでした。それほどに、神に近づくことは難しいことであったのです。
  • さて、「年に一度」という啓示は、キリストが「ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられた」ことを明らかにするための「型」です。年ごとに自分の血でない血を携えて聖所に入る大祭司とは違って、キリストは多くの人の罪を贖うために、ただ一度、ご自身をささげられたのです(ヘブル10:10, 12, 14, 18)。しかも古い契約の律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえ(の方法)によって神に近づいて来る人々を、完全にすることができません。しかしキリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。今やキリストは、神の右の座に着き、敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。この永遠の大祭司を仲介者とする「新しい契約」のために流されたイェシュアの血潮によって、今や私たちはなんら責められることなく、なんら臆することなく、大胆に、まことの聖所に入り、神に近づくことができるのです。何とすばらしい道をイェシュアは開いてくださったことでしょうか。まことの平安はイェシュアの十字架の血潮にあります。そこに私たちは絶えず目を向けなくてはなりません。

ベアハリート 

  • イェシュアが地上再臨されるときまで、私たちには神の家をつかさどる偉大な大祭司、あわれみに満ちた、大祭司、私たちの弱さを思いやることのできる大祭司がおられることを信じ続けなければなりません。このことに対する感謝と賛美が、使徒パウロの言う「キリストを知る知識のかおり」(Ⅱコリント2:14)です。礼拝を通して、いや私たちが居る至る所で、神は私たちを通してこのかおりを放ってくださいます。ですから、決して恥ずかしがる必要はありません。そのかおりは客観的に、神にとってかぐわしいかおりです。しかし滅びる者(神の招きに応じようとしない者たち)にとっては「死から出て死に至らせるかおり」であり、救われる者(神の招きに応じた者たち)にとっては「いのちから出ていのちに至らせるかおり」となるのです(Ⅱコリント2:14~16)。この結果についての責任を問われることはありません。なぜなら、それは私たちの領域ではなく、神の主権的領域だからです。むしろ、私たちは「キリストを知る知識のかおり」を放つ務めにふさわしい者とさせていただけるように、日々、祈りたいと思います。



2016.6.4


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