****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

義人は信仰によって生きる①アベル

第15日 「義人は、信仰によって生きる」 

信仰によって生きた模範者たち①アベル

はじめに

  • 今朝のメッセージは、ひとつの聖句を心の中に刻みたいと思います。その人の聖句とは、説教題としましたように、「義人は、信仰によって生きる」ということばです。このフレーズは、へブル人への手紙では10章38節にあります。へブル人への手紙10章35節~39節を読みましょう。

35 あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。
36 あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
37 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。
38 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」
39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

  • LB訳では次のように訳されています。

    35 すばらしい祝福が待っているのですから、どんなことがあっても、主を信じ続けなさい。 やがて主から受ける報酬を、いつも思い起こしなさい。36 神様の約束されたものを、そっくりいただきたいと願うなら、神様の御心を、忍耐強く実行しなければなりません。37 キリスト様のおいでになる日が、これ以上遅れることはありません。38 信仰によって、神様の前に正しいと認められた人たちは、どんなことででも主を信じ、信仰によって生きなければなりません。しりごみするような人を、神様は喜ばれません。

  • このヘブル人への手紙を書いた著者の目的とするところは、この手紙を読む者を信仰に導くことです。特に、信仰の創始者であり、完成者であるイエス・キリストに目を向けさせることでした。39節に「私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。」とありますが、この意味するところはなんでしょう。当時の迫害において、信仰から離れる者もいましたが、そこまでいかなくても、信仰が弱くなってしまったクリスチャンがいたようです。
  • 現代の日本においては、迫害はありませんが、世界でも前例のない稀に見る高齢化社会を迎えようとしています。迫害はなくても、信仰の意識の薄れは否応なく襲ってきます。別な意味で、信じることの意識の後退が起こります。しかし、たとえ、そうであったとしても、それは決して「滅びに至る」ものではありません。神の恵みが滅びることを許しません。信じる者の安全は不動なのです。もしこの神の恵みがなかったならば、だれも救われることはありません。「義人は、信仰によって生きる」からです。

1. わたしの義人は、信仰によって生きる

  • 「義人は、信仰によって生きる」というこのことばは、実は、旧約聖書にある預言書ハバクク書2章4節にあることばです。新約聖書では以下の3箇所に引用されています。それぞれ同じみことばを引用していても、その強調するポイントが異なります。

(1) ガラテヤ書 3章11節―「義」

  • 神の前に義と認められるのは何によってかというところに焦点が当てられます。神の前に義と認められるのは、律法を行うことによってではなく、ただ信仰によってのみ義とされるということ。この場合の「義」とは、神に受け入れられ、神に喜ばれることを意味するかかわりのことです。つまり、「義」とは「正しいかかわり」(関係概念)という意味です。ですから「義人」とは、神から見て正しいかかわりをもっている人ということになります。しかし、神から見て正しい人というのは、道徳的・倫理的に立派とか、品行方正な人という意味ではなく、あくまでも神を信じる人、どこまでも神を信じる者だということです。

(2) ローマ書 1章17節―「信仰」

  • 神を信じる信仰―特に「イエス・キリストを信じる信仰」に焦点が当てられます。信仰による救い、信仰による勝利が強調されています。

(3) ヘブル書10章38節―「生きる」

  • 信仰によって生きることに焦点が当てられています。 (特に、旧約聖書に登場する人物が取り上げられています。その頂点にイエス・キリストがおられます。この方こそ、信仰の創始者、信仰の完成者として紹介され、その方から目を離さないように、と勧告しています。)
  • ヘブル書が提示している「義人は信仰によって生きる」というみことばは、「生きる」というところに焦点が当てられています。11章では、信仰によって生きるとはどういうことかを、旧約に登場する具体的な人物を取り上げながら、信仰によってどう生きたかについて記されています。これから私たちも、その中から幾人かの人物を取り上げて学んでいく予定ですが、その最初の人物として、「アベル」を取り上げたいと思います。

2. 信仰によって生きたアベル

へブル人への手紙11章4節 

信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

  • ここには「アベルが義人である」と記されています。はじめて神から義とされた人物は、アブラハムだと私は思っていましたが、ここを見ると違っていたことに気づかされます。聖書で最初に神から義とされた人物は、なんとアベルだったんですね。アブラハムは信仰によって義とされた、神から受け入れられたということですが、アベルの場合にも、「信仰によって」と11:4にありますから、信仰によって義とされたということが分かります。行いではなく、信仰によって義とされたアベル。信仰によって神から目を留められたアベル。彼はどのような信仰をもっていたのでしょうか。
  • その前に、アベルが聖書に登場する箇所を見ておきましょう。
    創世記4章1~5節。

    人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。ある時期になって、カインは、地の作物から主へのささげ物を持って来たが、アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

  • 兄のカインのささげものは、地の産物でした。弟のアベルのささげものは、羊の初子でした。なぜ、神である主はカインのささげものには目を留められず、弟アベルのささげものに目を留められたのでしょうか。なぜこのような区別が生じたのでしょうか。それぞれ自分の職業にふさわしいささげものであったはずです。もっと厳密に見るならば、聖書には「主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。」とあります。「人物とその人物がささげたささげもの」が密接な関係にあることを示しています。
  • ちなみに、アベルのささげものが神に受け入れられたことを妬んだ兄のカインに対して、神はこう言いました。「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたは正しく行っていないなら、罪は、戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたはそれを治めるべきである。」(4:7)と。
  • ささげものが神に受け入れられるのは、ささげものそれ自体ではなく、そのささげものをささげた者の「心」なのです。ささげものはその心の外的表現と言えます。アベルのささげものが神に受け入れられたのは、「羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た」からでした。しかしカインにはそうした記述がありません。とすれば、ささげものが最上のものではなかったのではないかと想像してしまいます。
  • へブル書では、創世記のアベルのささげものが「いけにえ」と言い換えられています。しかも「すぐれたいけにえ」です。創世記では「最上のささげもの」、へブル書では「すぐれたいけにえ」となっていて、いずれも「最上の」「すぐれた」という表現があります。アベルがそうしたささげもの、いけにえをささげたその心のうちにあるものがどのようなものであったかが大切なのです。「うちにあるもの」その「何か」とは信仰のことです。アベルの行為は「信仰によって」なされたものであったとするなら、その信仰とはどんな信仰なのでしょうか。しかも、「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」というその信仰とは?
  • 私が思うに、自分の生涯において、神はいつも良いものを与えてくださっているという信仰ではなかったかと思います。それが神に対する感謝の表われとして、「最上のささげもの」「すぐれたいけにえ」としてささげられたのではないかと思います。神がどのようなお方であるかという信仰が、ささげものにおいて表わされたということでしょう。自分の能力とか、自分の品性とかではなく、神をどのようなお方として信じているかが、神にとっての関心事であったということです。
  • ヘブル11章6節に「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」とあります。神に近づく者は、「神がおられることと、神を求める者に報いてくださる方であることを信じなければならない。」とあります。ここを正しく理解する必要があります。
  • まず、「神がおられることを信じなければならない」というのは、神が存在するとかしないとかいうことではありません。存在の是非を言っているのではなく、神がどのようなお方であってくださるのか、ということを知らなければならないということです。たとえば、神がいつも自分に良いものを与えてくださる方だということを知り、信じなければならないということです。そしてさらに、「神を求める者に報いてくださる方であることをも信じなければならない。」とは、自分が信じたそのとおりの方として自分に報いてくだされと信じなければならないということです。
  • つまり、神が良いお方であると信じるならば、いつもそのようなお方として自分にかかわって下さるのだと信じなければならないという意味です。アベルのささげものは、そうした信仰の表現としてささげられたものだったのです。しかし兄のカインのささげものは、そうした信仰の表現としてはささげられなかったので、神から目を留められなかったのです。
  • もう一度、11章4節のみことばを読んでみましょう。
    「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」
  • 「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」とはどういう意味でしょう。アベルは正しい信仰で神にささげものをしたことで、神から目を留められたことによって、兄のカインの嫉妬によって殺されてしまいました。このように、信仰によって生きることは、時には不信仰な者によって苦しみを受けたり、迫害を受けたりすることがあるかもしれません。まさにこの手紙が書かれた時代ではそういうことがあったのです。しかし、知ってください。主なる神は、すべての義人の流された血を決して忘れません。覚えておられるのです。その意味で、「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。」という表現で私たちに励ましを与えているのです。
  • 「義人は、信仰によって生きる」ということばを心に刻みましょう。そうしたひとりの人物としてアベルを取り上げました。彼のように、いつも私たちに良いものを惜しみなく与え、注いでくださっている神がおられることを信じて、その方にふさわしいかかわりを表していく者となりましょう。神は私にとって良い方であるという信仰がなければ、いつも感謝をささげていくことはできません。ましてや神に喜ばれるささげものをすることはできません。信仰がなければ、神と良いかかわりを築いていくことはできないのです。

●ここに記された解釈は、2016年の夏に訂正されました。新たな解釈は、「ヘブル・ミドゥラーシュ例会」(No.10)をご覧ください。


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