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義人は信仰によって生きる⑦ギデオン

第21日 「石橋を叩いて渡るような小心者ギデオン」 

信仰によって生きた模範者たち⑦ギデオン

はじめに

  • へブル人への手紙の講解説教、これまで「義人は信仰によって生きる」というテーマのもとに、11章で神によって称賛された人―信仰の勇士たちーを取り上げてきました。前回がこのシリーズの最後のつもりでしたが、今日、おまけとしてもう一回追加したいと思います。ですから、今日がこのシリーズ七回目(完全数)ということです。少し、これまで取り上げた信仰の勇者たちの名前だけでもおさらいしておきましょう。

    ①いつも良いものを与えてくださる神に対して、自分も与えられたものの中から最高のものを神にささげたことによって称賛されたアベル。
    ②自分の息子が生まれてから、自ら、自発的に神とともに歩んだエノク。
    ③神の約束を信じ続けてその生涯を生き抜いたアブラハム。
    ④この世の富や栄光を捨てて、神の民とともに生きることを選び取ったモーセ。
    ⑤命懸けで神の側についた遊女ラハブ
    ⑥信仰によって難攻不落と言われたエリコの町を攻め落としたヨシュア
    ⑦(石橋を叩いて渡るような小心者)ギデオンがなぜ信仰の勇者と呼ばれるようになったか、これが今朝の主題です。

  • ギデオンが登場する時代は紀元前11世紀です。今からなんと三千百年前の話です。日本の歴史でいうならば、日本に稲作技術が入ってきたのが、紀元前10世紀と言われています。それまでは縄文式時代と呼ばれ、人々は狩りや貝などを採集して生きていました。しかしお米を作る稲作の技術によって、人々は一定の土地に定住して、共同体として生きることになります。縄文時代から弥生時代への移行は稲作という新しい技術が日本もたらされたことによって、新たな文化を形成するようになっていきました。
  • しかし聖書の話はそれ以上に旧い話です。信仰の父アブラハムが登場するのは紀元前2千年前です。ですから、今から言うと4千年前。しかし、どんなに古い話、どんなに古い出来事であっても、神を信じて生きる者たちにとっては、常に新しい話であり、出来事なのです。なぜなら、神を信じて生きるということは、いつの時代であっても、常に、エキサイティングで、新鮮だからです。昔も今もなんら変わらない。なぜなら、神は永遠のお方であり、変わらないということがその理由の一つ。もうひとつの理由は、人間の本性というものは、昔も今もさして変わらないからです。ですから、たとえ何千年前の話であっても、神を信じる者たちにとって、聖書の話は今もなお私たちに語っていますし、多くの教訓を与えてくれているのです。
  • 今朝は、ギデオンという人物を通して、現代に生きる私たちにどんな霊的教訓を与えてくれるのか、それぞれ大きな期待をもって聞きていただきたいと思います。
  • まず、テキストとなるヘブル人への手紙の箇所を読みたいと思います。11章32~33節

    32
    これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
    33
    彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、・・・弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。

  • 特に、注目したい点は、「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。」という部分です。

1. 小心者のギデオンに対する神の召し

  • ギデオンという人物(若者)は、これまで紹介した人と違う点は、とても臆病で、小心な者であったという点です。このギデオンと対照的な人物は、サムソンとかダビデ、サムエルといった人々でしょう。小心者の代表と言えるのが、ギデオンという人ですが、その彼が「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れ」たのです。この文章はギデオンに最もよく当てはまるように思います。ごくごく平凡な人が、しかも、とりわけ小心者のギデオンが神を信じて、歴史を動かすものとして用いられているのです。
  • イスラエルの民が約束の地カナンに進入し、そこを征服して占領します。12の部族はそれぞれ自分たちに割り当てられた地に定住するようになりました。ところが、各部族は自分たちの所有地を耕すことに夢中で、イスラエルの民全体としての一致は希薄になっていきました。その上に、その土地にまつわる昔からの風習にそまって偶像礼拝をするようにもなっていきました。そのために、神は信仰を呼び覚ますために、周辺の敵によってイスラエルの民に苦難をもたらします。そこで人々は神に心を向けて神を求めさせ、その求めに答えて、彼らをその苦境から救い出すための指導者をお立てになりました。それが「さばきつかさ」と呼ばれる人々です。聖書はそれらの人々の話を「士師記」の中にまとめていますが、ヘブル人への手紙の著者はその士師記の時代の中から、特別に4人の人物を選んで列記しているのです。すなわち、ギデオン、バラク、サムソン、エフタです。ギデオンはその中の一番目に挙げられています。これらの士師(さばきつかさ)たちは、イスラエルの危機の時の救済者であり、指導者であったわけです。
  • さて、次の図を見てください。

    画像の説明 画像の説明 

  • この図には、イスラエルがカナンの地で戦った敵が記されています。
    ①カナンに住むカナン人と戦って制圧したのは女預言者デボラと将軍バラクでした。女性の優位が目立つ。
    ②北東の敵アモン人と戦って制圧したのはエフタ。エフタは私生児としての悲哀を経験して育ちました。
    ③南西の敵ペリシテ人と戦って制圧したのはサムソン。彼は生まれたときから神にささげられた者として育てられ、怪力を持った人物でしたが、臨戦意識を失ったために悲惨な最期を迎えました。
    ④南西の敵ミデアン人と戦って制圧したのがギデオンです。
  • ミデアン人とは砂漠の民です。「アラビアのローレンス」という映画がありましたが、その舞台となった地域に住む遊牧民でしたーモーセがエジプトから逃れた先がミデアンでしたー。彼らは、カナンの地が収穫時期になると、ラクダに乗って、集団で襲ってきました。聖書によれば、ミデアン人は「いなごの大群のようにしてやってきた」と記されています。そして、西海岸にあるガザというところに至るまで、彼らは略奪をほしいままにしました。地の産物を荒らし、羊や牛、ろばのえささえも残さなかったと記されています。そのようにして、彼らはイスラエルを7年間にわたって毎年、略奪をほしいままにしたのです。イスラエルの人々は、彼らを恐れ、彼らを避けるために、山々にある洞窟や隠れて過ごさなければなりませんでした。

(1) ギデオンの召命

  • イスラエルの人々は主に叫び求めました。それが神に届いて、神は主の使いをひとりの青年のもとに遣わします。その青年がギデオンです。彼もまたミデアン人を恐れて、隠れるようにして、酒ぶねの中で小麦を打っていました。その彼に主の使いは言いました。その第一声は
    「勇士よ。主があなたといっしょにおられる。」 でした。
  • このことばを聞いたギデオンの反応はどうだったでしょうか。皆さんならどうでしょうか。「勇士よ」だなんね。買いかぶりすぎ。彼は隠れるようにしていたのですから。しかも、イスラエルの状況は最悪の状態です。あのエジプトから民を救い出した神はすでに民を見捨ててしまわれたようなみじめな状態でした。そんな状態の中で、そんな厳しい現実の中で、「勇士よ、主があなたといっしょにおられる」と言われても、とても素直に受け入れられることばではなかったと思います。そんな彼に主の使いはさらに言います。
    「あなたのその力で(つまり、ありのままで)行きなさい。わたしがあなたを遣わすのだから、あなたはイスラエルをミデアン人の手から救うことができる」と。
  • ギデオンはそのことばに対してこう言います。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の家族はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」と。
  • すると、主はー(それまでは「主の使い」となっていたのが、ここで「主」と表記される。つまり、神の第二格の存在が示唆されている。単なる天使のことではないことが表記されている)ー「確かにわたしはあなたといっしょにいる。だから、あなたはミデアン人をひとりのように、すなわち、彼らがあたかもたった一人であるかのように打ち殺そう。」
  • そこまで言ってくれるならば、「私はあなたに従います」と言いそうなものですが、ギデオンはここから彼の性格が表れます。良く言えば、慎重な性格、用意周到だと言えますが、悪く言えば、しるしを求める臆病で小心な者と言えます。こんなやりとりが続きます。

(2) しるしを求めるギデオン

  • 「お願いです。私と話しておられるのがあなたであるーつまり主の使いであるというしるしを見せてください。」と言いますが、早速、ギデオンと話しているのが主の使いであるというしるしを彼は見せつけられることになります。それはギデオンが主の使いの対して、供えようと用意したパンと肉汁を持ってきたとき、主の使いは「パンを岩の上に置き、肉汁をそこに注げ」と命じたのです。ギデオンは黙ってそのことばに従いました。するとどうでしょう。主の使いはその手にしていた杖の先をのばして、その供え物に触れたその時、たちまち火が岩から出て、その供え物を焼き尽くしてしまいました。そして主の使いは去って見えなくなってしまったのです。ギデオンは驚いて、自分のいのちは取られてしまうのではないか恐れました。というのも面と向かって主を見たからでした。しかし再び、主の「安心しなさい。恐れるな。あなたは死なない」という声をギデオンは聞いたので、ギデオンはそこに主の祭壇を築き、「アドナイ・シャロム」と名付けました。その意味は「主は平安」という意味です。以上が、第一のしるしです。
  • もう一つのしるしを求めた話があります。いよいよミデアン人が、しかも、こんどは今までとは違って、南のアマレク人と合流して、連合軍として攻撃をしかけようとしていた折のことです。 ギデオンは果たして自分が神に召されたのかどうか、もう一度、しるしを求めるのです。―(有名な話ですから覚えてください)―ギデオンは神に言いました。
    「神よ。しるしをもって再確認させてください。今晩、私は打ち場に刈り取った羊の毛を置きます。もし朝になってそれが濡れており、土全体がかわいているなら、あなたが私の手でイスラエルを救うつもりであることが私にわかります。」と。主の答えどうだったのでしょうか。ギデオンが翌朝早く起きたとき、土はかわいていましたがね 羊の毛からは鉢いっぱいの水を絞れるほど濡れていたのです。ところが、ギデオンはさらにしるしを求めます。偶然だったのではないかとおもったのでしょう。神にこう言いました。
    「神さま、怒らないでください。私が欺かれているのではないことを確認するためにも、もう一度だけ―これで三度目よ!!― あなたを試みさせてください。もし本当にイスラエルを救うために私をあなたの道具とするおつもりなら、明朝、この羊の毛だけが乾いていて、土のほうを濡らしてください。」と。神は彼の要求を承諾なさいました。そして朝になると、土は露でおおわれ、羊の毛だけが乾いていました。
  • 神の召命を試みたギデオン、ある意味では慎重でありますが、ある意味ではしつこいほどのためらいです。これは不信仰につながりかねません。それほどに、彼にとっては、神がイスラエルを救うために自分を用いられるということが信じられないことだったようです。
  • 神からの召命を確信するために、あるしるしを求めることは決して悪いことではありません。神に用いられる者たちには、必ずといっていいほど、召しの確信があるものです。その人の力とか学歴とか、育ちの環境とか経験は問題ではありません。神からの召しがあるかどうかが問題なのです。その召しが明確ではないと、私たちは神の働きに継続的にかかわっていくことはできません。必ずどこかで投げ出してしまうからです。自分に与えられた持ち場を離れてしまうからです。召しとはその人の全生涯にかかわるものです。―それに関連する話が続いています。つまり、神からの召しのしるしは、その人のうちに、絶えず、臨戦意識というものがあるか否かでわかるのです。その点にまつわる話が続いています。

2. 臨戦意識の有無

(1) ふるいに掛けられたギデオンの軍隊

  • 神の召しを確信したギデオンは、イスラエルの部族に呼びかけ戦う者を召集しました。その呼びかけにこたえて総勢3万二千人ほほどの人々が戦うために集まってきました。
  • ところが、神は言います。「あなたの軍隊は多すぎる」と。その中から、戦うことにおいて「恐れ、おののく者をみな帰してしまいなさい。」と神はギデオンに言いました。ギデオンがそのように話すと、何と集まってきた者たち三万二千人のうち、二万二千人が帰って行きました。残りの人数は一万人になってしまいました。なんと薄情な。連合軍が今にも押し寄せてこようとしているにもかかわらず、戦おうとする者は一万人しかいなかったのです。
  • ところが、それでも主は「まだ多すぎる」と言われました。主は残った者たちを試すため、ふるいにかけようとしてこう言いました。「彼らを二つのグループに分けなさい。その二つとは、犬がするように舌で水を飲んだ者のグループと、ひざをついて口に手を当てて水を飲む者のグループです。前者の「犬が水を飲むように」とは顔を下に向けてという意味です。そのような姿勢で飲んだ者は9,700人、後者の膝をついて両手で水をすくうようにして、つまり顔を下に向けず、飲んだ者は300人でした。ここでなにか試みられたのでしょうか。
  • それは臨戦意識の有無です。この試みの意図は、渇きを満たすために水を飲むという行為においても、絶えず注意を敵に向け続けられるのはどれほどいるかという事であったようです。結果としては、9,700人は戦いに来ているということを全く忘れて、注意を払うこともなく、水を飲んでいたのに対して、300人はいつ敵の奇襲に合うかわからない、いつなんどき不意打ちにあってしまうかわからない、そんな危険があることを想定している者たちでした。 
  • 神は後者の者たち、つまり、危機意識と臨戦意識をもって水を飲んだ者たち300人だけを残し、あとは帰宅させるようにギデオンに言いました。神はこの300人で戦うよう示されたのです。最初に集まってきた人数と比べると、なんと1/100に減らされてしまったわけです。

(2) 奇妙な戦い方による勝利

  • 主なる神は、その夜、ギデオンに現われて言いました。「さあ、立って、敵の陣営に攻め下れ。敵をあなたの手に渡したから。しかし、もし下っていくことを恐れるなら、 あなたに使える若い者を連れて、一緒に敵の陣営に行って、彼らが何と言っているかを聞きなさい。そのあとで、あなたは勇気を出して、敵の陣営に攻め下らなければならない。」と。
  • ギデオンは言われたようにしました。敵の陣営は、いなごのように大勢おり、らくだも海辺の砂の数のように多くて数え切れないほどでした。ギデオンはもっと陣営に近付いてみると、ひとりの者が仲間に夢の話をしていました。その者がいうには「大麦のパンのかたまりが一つ、ミデアン人の陣営に転がってきて、天幕の中にまで入り、それを打ったので、それは倒れた。ひっくり返って、天幕は倒れてしまった」という夢の話でした。その夢の話を聞いた仲間は、それはイスラエルのギデオンの剣にほかならない」という解釈しているのをギデオンが聞いたのです。そこで彼は勝利を確信したのですが、その戦い方が実にユニークでした。
  • その戦い方というのはこうです。ギデオンは精鋭300人を三つに分けて、それぞれ全員に角笛と空の壺とを持たせて、その壺の中に松明を入れさせました。そして一斉に角笛を吹きならし、手に持っていた壺を割って左手にたいまつを堅く握りしめ、右手には吹き鳴らす角笛を堅く握って、「主の剣、ギデオンの剣だ」と叫んだのです。奇襲です。
  • この奇襲によって、敵はあわてて逃げだしました。また、主は陣営の全体にわたって敵の同士打ちが起こるようにしました。なんという奇妙な戦いでしょうか。イスラエルの武器は、角笛と松明だけです。武器らしきものはなにもなくて、戦いに勝利したのです。
  • エリコの町を攻め取るときにも、ただその周囲を一日に一回まわるだけ、七日目には七回まわって「ワン」。それで城壁が崩れ落ちて町が陥落。このような奇妙な戦いは二度と同じものはありません。カナンの王と戦った将軍バラクの場合もそうです。敵は鉄でできた戦車900両。それに対してイスラエルの武器といえば武器らしきものはなにもありません。いざ戦いの時に、敵が戦車で攻めてきたときに、戦場に大雨が降り、戦車はぬかるみにはまって役に立ちませんでした。そんな勝利をだれが考えることができたでしょうか。
  • こんな話を聞くと、あのときそのときはラッキーだったかもしれないけれど、今度の戦いは果たしてという思いが当然起こります。神を信頼して戦うということはとてもリスクが高いのです。でもどうでしょうか。神はわれらとともにいるのです。戦う人数が問題なのではありません。数に対しては数で当たるというのが常識ですが、神の考えは異なるようです。私たちは働き人がひとりでも多くいることのほうがより有利だと考えますが、神の考えは異なります。人間的に見て、「これなら大丈夫だ」というものも、主の戦いの場合には実際には役に立たないものなのです。神の方法は人間的にみるならば、無謀としか思えません。

おわりに

  • 大切なことは何でしょうか。ギデオンの話から教えられる霊的な教訓とは何でしょうか。神は、ここにいる私たちに何を問いかけているのでしょうか。いろいろな問いかけがあると思います。
    ①数や量に対する考え方、多いことは良いこと、優れたことだとする考え方に対する問いかけ。少数であることの価値。マイノリティの価値。
    ②神からの召しの持つ力・・果たして自分は神の召しをどう受け止めているのか。
  • 自分に与えられた使命をやり遂げようとする意志を持ちつつ、神の時が来ることを待ち構えている生き方をしているだろうか。それぞれが神の問いかけを聞きつつ、それに従いたいと願います。 


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