聖なる神に近づく道
モーセ五書の目次
レビ記2. 聖なる神に近づく道
(1) 神に近づく五つのささげもの
幕屋において神に近づくためには、祭司がいけにえをささげる必要があった。
① 全焼のいけにえ(燔祭)〔任意のささげもの、自発的、香ばしい香り〕
② 穀物のささげもの(素祭)〔任意、自発的、香ばしい香り〕
③ 和解のいけにえ(酬恩祭)〔任意、自発的、香ばしい香り〕
④ 罪のためのいけにえ(罪祭)〔義務的、香ばしくない香り〕
⑤ 罪過のためのいけにえ(愆祭)〔義務的、香ばしくない香り〕
- これらのいけにえは全体がひとつとなって、贖いのいけにえとしてのキリストご自身の5つの異なる観点を〔ひな型〕として示している。
①〔全焼のいけにえ〕
御父の最高の喜びのために、キリストはご自身を完全にささげられた。ベツレヘムの馬小屋からカルバリの十字架まで、地上における主の道は、御父の意志への心からの絶対的な服従であった。キリストの生涯を要約する聖句は次の通りである。「わが神よ。わたしはみこころを行なうことを喜びます。あなたのおきてはわたしの心のうちにあります。」(詩篇40篇7、8節、へブル10章7~9節)。罪なきキリストがご自身を神のみこころのために完全にささげられたのである。
②〔穀物のささげもの〕
穀物は人の労苦の結実である。したがってこのささげものはキリストご自身が完全な人間性を備えておられたことのひな型である。また、人間に仕えるためにご自身をささげたキリストのひな型でもある。
③〔和解のいけにえ〕
このいけにえによって神との交わりを楽しむことができた。神にささげた部分は脂肪の部分であり、残りの部分はささげた人のものであった。このいけにえは、神と人との和解、結びの帯としてのご自身をささげたキリストのひな型である。キリストのいけにえによって、神はなだめられ、人は神との和解が与えられ、神との平和が成立した。
④〔罪のいけにえ〕
このいけにえは、意識的に犯した罪ではなく、無意識に犯した罪の赦しのためのものであった。キリストは私たちの代わりに罪(原罪)となられたひな型である。
⑤〔罪過のいけにえ〕
このいけにえは、自覚的な罪、行為の罪(複数)の赦しのためのいけにえである。キリストは私たちの犯した罪のために身代わりとなられたひな型である。
- ②を除くすべてのいけにえは、みな血を注ぎ出すものである。血はいのちそのものであるゆえに価値がある。血を注ぎ出すいけにえによって、神から隔絶した人間が、唯一、神に近づくことが赦されたのである。
- レビ記全体は、新約聖書の「ヨハネの手紙第一1章節の偉大な真理を明らかにする最高の例証である。」(バクスター)。レピ記を理解するならば、新約聖書のへブル人への手紙を理解することができる。
(2) ささげものの順序
①出エジプト記の幕屋の建造において、神は至聖所の契約の箱から語れたように、レビ記のいけにえにおいても同様の順序が見られる。つまり私たち人間が出発点とするところを神は最終点としている。
②私たちがはじめて自分の罪を自覚し、罪人として神のものに(十字架のもとに)にやって来るとき、最初に必要なのは罪過に対する赦しである。しかしその赦しの喜びも、自分の性質の中にある罪(原罪)に気づくまでは、罪の赦しの恵みを真に喜ぶことはできない。キリストは私たちの犯した罪の身代わりとして死なれただけではない。私たちの代りに罪となられたのである。個々の罪もまたその根である原罪も十字架において取り扱われている。このことを悟るとき、私たちは神とのすばらしい平和の関係に入ることができる。そこには神に完全に受け入れられている自分を見出す。そして私たちはますます神のものとして自分を神に献げることができるのである。
③神に喜ばれる礼拝とは、「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげ」ることである。(ローマ12章1節) しかもこれはあくまでも自発的でなければならない。礼拝とは、ささげることであり、献身なき礼拝を神は受け入れることはできないのである。
(3) キリストによる永遠の贖い
- レビ記における祭儀律法のささげものによっては、「礼拝する者の良心を完全にすることはできなかった」(へブル9章9、10節)。しかしキリストが私たちの「罪のために一つの永遠のいけにえをささげて」くださったことにより、「私たちは聖なるものとされている」(へブル10章10節)。それゆえ、今日のキリスト者は、神に喜ばれる「霊のいけにえ」(Ⅰペテロ2章5節)、すなわち「賛美のいけにえ」(へブル13章15節)、「喜びのいけにえ」、「感謝のいけにえ」、「従順のいけにえ」、そして「自分のからだ」を生きた供え物として、自発的に、ささげるよう求められている。
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