****** キリスト教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

聖書の死生観を理解すること

39. 聖書の死生観を理解する

  • その棺は、どこへゆくのですか
    火葬場へ
    それからどこへゆくのですか
    お墓へ
    それからどこへゆくのですか
    知りません

    (川路柳虹『柩』)

  • 人が死ぬという確率は百パーセントです。例外はありません。あるとき、一人の人が釈迦に「人間の死後はどうなるのか?」と質問しました。釈迦はこの種の問いにはいつも答えませんでした。そこで彼は釈迦をあざけり「どうして答えられないのか」と迫りました。すると釈迦は、「死後の世界はだれも経験していないから、死後の世界があるとかないとか断言するのは、いずれも迷いである。それよりも大切な問題を問うのがよかろう。」と反問されました。つまり、死後の世界の有無を論じるよりも、どのように生くべきかを問う方が遥かに重大だと示唆したのです。
  • 仏教の教えは、まさに死の事実を前にして、それに応えるに足る生き方を学ぶことにあります。死から逃れるすべはなし、と居直ることで、生の極限まで充実した生き方を目指す、いわば「生の哲学」と言えます。それに対して、聖書の死生観は異なります。それは死に対する勝利です。死は人間が罪によって神から離れてしまったことによってもたらされた現実であり、神はその現実に対する救い(回復)を御子イエス・キリストを通して実現して下ったという歴史的事実に拠っています。死が死で終わらない。死の彼方に通じる「いのちの道」があることを告げています。この「いのち」とは、神との永遠の愛の交わりです。いのちが神から与えられるものであるように、その存続いかんも神の御手の中にあります。いのちは神のことばを聞き、神のみこころに従うことによって保たれます。もし神のことばを聞かず、みこころにも従わないことは、いのちの代わりに死を選ぶことを意味するのです。
  • 詩16篇のダビデはこう歌っています。「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。」(10~11節) このダビデの言葉は、やがてイエス・キリストの復活後、50日目に聖霊が弟子たちの上に注がれた時に、ペテロによって、キリストの復活と関連づけられて引用されました。ダビデはキリストが来られる1千年前に、聖霊によって、預言的に「いのちの道」について歌ったことがわかります。
  • 聖書の死生観を学び、死という現実と真正面から向き合うことで見えてくるものがあります。詩篇のその「死のなぞ(知恵)」を私たちに教示しています。

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