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聞くには早く、語るにはおそく

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3. 聞くには早く、語るにはおそく

【聖書箇所】1章19~20節

ベレーシート

【新改訳改訂第3版】ヤコブ書1章19~20節
19 愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。
20 人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

  • ヤコブの手紙は、主にある者たちが成熟した者となるための実際的、実践的な知恵の書です。今回は、特に19節を中心に学びたいと思いますが、そこには「三つの忠告」(勧告)がなされています。
    (1) 聞くには早く
    (2) 語るにはおそく
    (3) 怒るにはおそく
  • ところで、「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです」とはどういうことでしょうか。「そのこと」とは、前節の18節に記されている事柄です。

【新改訳改訂第3版】ヤコブ書1章18節
父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。

 

  • 19節の「そのこと」とは、「父はみこころのままに、真理のみことばをもって私たちをお生みになった」ことです。その目的は「被造物の初穂にするため」です。この文は総合的パラレリズムになっていて、「みこころのままに」と「被造物の初穂にするために」は同義です。私たちは、神である御父が創造された被造物の中で最初に再創造された初穂なのです。真の初穂はイェシュアご自身ですが、そのイェシュアを信じ、イェシュアにとどまることによって、やがて実現される御国における初穂的存在 (イェシュアのしもべ集団)なのです。とすれば、この世において御国の初穂的存在としてどのように歩むべきか、神のご計画が実現されるために、神と人とに対してどのように歩むべきか、その実際的生活の知恵を指南しているのがヤコブの手紙です。それが19節の「愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです」につながっています。「知っている」とありますが、原文では命令形になっています。ですから、そのことを「知りなさい」、「知っておきなさい」と訳されるべきです。
  • 牧師として、私のこれまでの自分の伝道牧会を振り返ってみるとき、19節のみことばによって愕然とさせられます。ズーンと深く落ち込んでしまいそうです。なぜなら、自分がしてきたことの多くは「聞くにはおそく、語るのに早く、怒るには早く」という、19節の反対のことをしてきたように思うからです。牧師というのは教会においてどうしても「語る」という働きが目立ちます。未信者に対しても福音を伝える、語り伝えるという役割が先立ってしまいます。いつも高い所に立って(実際、講壇は高い位置にあるので)、しかも上から目線で「教え」ます(立って話すことが多いので)、さらに気持ちも「上から」です(神の代弁者として語っているので)。そのために「聞く」ことがおろそかになりやすいと言えます。しかしヤコブは「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそく」と教えています。多くの時間と祈りをもってメッセージを準備し、いざ礼拝に臨もうとしている矢先に、信徒からの「今日、急に都合が悪いので礼拝をお休みします」との一方的な電話。「あるいは遅れます」との連絡。そのことに何も感じない牧師はいないはずです。ところがヤコブの勧告は、「怒るにはおそいようにしなさい」なのです。
  • 牧師にとってのわずかな慰め(安心)は、ここでの箇所には「だれでも」となっていて、「牧師」限定の勧めではないということです。礼拝における牧師のメッセージは、単なるお話として聞くのではなく、牧師を通して神の語りかけを聞くことで礼拝が成り立っています。神との関係において、あるいは教会という交わりの中で、「聞くには早く」とはどういうことかを考えてみたいと思います。

1. 聞くには早く

(1) 聞くという行為の諸相

  • 一口に「聞く」という行為にもさまざまな面があります。私たちは、毎日、テレビやラジオなど、さまざまな情報を受動的に聞いています。しかし、「聞く」ということは、そうした表面的なことだけでなく、人のことばの背後にある心(魂)を聞くという面もあります。そしてこれは決して簡単なことではありません。それは意識しなければ聞こえてこない世界です。語るよりも数倍難しい世界です。『傾聴』する(相手の語ることに耳を傾ける)には、特別な訓練を受けなければできないという人もいます。「聞くという行為の諸相」について・・。

①「外見を聞く」・・その人の表情、目の動き、身体の何気ない動作などの中に、何を語ろうとしているのかを聞き取ること。例えば、「あくびはうそ偽りのない意志表明」(牧師を殺すのに刃物は要らない、あくび一つで充分)。

②「言葉を聞く」・・文字通り、相手の語ることばを聞く。しかし意味が明確でないかもしれないし、つじつまが合わないかもしれない。そうしたことばの乱れを越えて、ことばの奥にある状況を聞き取る。時には本音と建て前があるかもしれない。大好きな人を「大嫌い」ということさえある。

③「沈黙を聞く」・・沈黙にも深い意味が隠されている。特に、心が混乱していたり、あるいは辛い葛藤状態にあるときは、沈黙という形を取ることが多い。またその背後に何らかの不満や隠された怒りがあるかもしれない。これを聞き取ることが求められる。

④「感情を聞く」・・病院に行き、患者が医者にどこそこが痛いと訴えても、「別に痛みをもたらすような悪いデータは検査では出てきませんがネー」と答えるならどうだろう。患者は痛みの原因よりも、痛みの感情を訴えているのかもしれない。そうした感情を聞き取ることが求められている。

  • このように、相手の語ることを聞くという行為は、好奇心や興味ではなく相手に対する関心や愛の心配りがなければ到底できないことです。

(2) こころ(言葉の背後にある心)を聞くことの必要性

  • 私たちのことばの背後にある様々な感情、訴えを聞き取るということは、決して簡単ではありません。
    牧会カウンセリングでは以下の二つのアプローチがあるとされています。

問題中心のアプローチ
問題そのものに焦点が置かれます。事柄、表面的な事実、学歴、d仕事、住環境、家族構成などを聞く。

人格中心のアプローチ
表面的な問題や悩みではなく、問題や悩みを持っているその人自身に焦点が置かれる。その人の心を理解し、受けとめ、共感しようとする。

(3) 聞くことの効用

愛を育てる・・「愛」について語るよりも、「聞く」ということに徹することで、愛が伝わる。愛が育つ。

関係を造り出す・・「聞く」ことは、人間関係を造る力を持っている。いつも自分のことばかり言っている人は人間関係を造り出すことはできない。手を出す(援助)よりも、言葉をかける(親切)よりも確実に「聞く」という姿勢が互いの関係を深めることは間違いない。

神と出会わせる・・心を開き、相手のうめきを聞くことによって、互いが同じ生きる方向を持つようになる。例えば、信仰という道。

  • 「あなたは、よく語る人と、よく話を聞いてくれる人とどちらの人と一緒にいたいと思うだろうか。」、つまり、「しゃべり上手な人と聞き上手な人とでは、どちらが人に喜ばれるだろうか。」
  • これまで、誰からも、一度も悩みについて打ち明けられ、相談されたことがない人がいるならば、その人は自分自身について反省してみる必要があるかもしれない。心の中にある苦しみや悩みを打ち明けて相談する、あるいは相談されるということは、この世で持ち得る人間同士の最も深い交わりの一つです。そこにはお互いに対する信頼と尊敬、さらに愛がなければなりません。だれからも相談されたことがないということは、だれからも信用されなかった、ないしは相談しても無駄だと思われたということです。何と寂しいことでしょうか。
  • この世の多くの人々は、聞いてくれる耳を求めています。語ってくれる人よりも、聞いてくれる人を求めています。特に、悩みを持っている人にとっては、これは真理です。教会という交わりにおいても、「聞くという奉仕」は重要です。ドイツの牧師であったボンフェッファーという人は、「交わりの中で、人が他の人に対して負っている第一の務めは、他の兄弟姉妹のことばに耳を傾けるということである。神への愛は、われわれが神のことばを聞くことから始まるように、兄弟への愛の始まりは、われわれが兄弟の言葉を聞くことを学ぶことである。このように、他者の言葉に耳を傾けて聞くことが、キリスト者の愛の奉仕なのである。」と述べています。
  • この世の多くの人々は聞いてくれる耳を求めているのです。キリスト者は社会において、聞いてあげる耳を持たなければならない。もし聞く耳がないとしたら、その人々は教会ではなく、別なところ(精神療法士)へ行くかもしれません。

(4) 神の声、真理のことばを聞く

  • さて、これまで「聞くには早く」ということばを人と人との間において考えてきましたが、神と人との関係においてもこのことは重要です。むしろ、こちらの関係の方が重要です。旧約聖書には「聞きなさい」(「シェマ」שָׁמַע)という表現が数多く見られます。有名な箇所では、申命記の6章4節です。

画像の説明

  • 神のことばを聞く、「真理のことば」を聞くということは簡単なことではありません。単なることばの表面的な意味合いだけでなく、神の心の深い所にあるものを聞き取らなければならないからです。イェシュアもしばしばたとえ話を話される時、「耳のある者は聞きなさい」と言われました。それはそのことを意味しています。使徒パウロも奥義を語る時に「聞きなさい」と言っています。ヤコブの手紙では3回も「聞きなさい」とあります(2:5, 4;3, 5:1)。黙示録では8回、御霊が諸教会に対して語る事に対して「聞きなさい」と命じています。神が語られることを「聞く」ことは、人がからだとたましいと霊で構成されているように、三つの領域があります。重要なことは「霊」の部分において、つまり深いレベルにおいて「聞く」ことを絶えず求めなければなりません。それが「聞くには早く」ということの意味ではないかと思います。語る前に、聞くことが優先されなければならないということです。これが主にある者たちのあり方であることをヤコブは言おうとしているのではないでしょうか。

2. 怒るにはおそく

  • 対人関係に戻って、「聞くには早く、語るにはおそく」に続いて、もうひとつ大切なことは「怒るにはおそく」ということです。聖書はいろいろなところで、「怒り」について警告しています。聖書の中で「怒り」の感情を最初に表したのはだれであったでしょうか。・・・・・エデンの園での主なる神ご自身です(「怒りの感情というよりは、悲しみに近い感情だ」とも言えますが)。罪を犯して主の御顔を避けて隠れたアダムとその妻に対して、怒り(悲しみ)の感情をあらわにしました。しかしその後に、「神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた」(創世記3:21)とあります。
  • 箴言には、怒りをおそくする者に対する祝福を記しています。

①14:29 「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」
②15:18 「激しやすい者は争いを引き起こし、怒りをおそくする者はいさかいを静める。」
③16:32 「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」
④19:11 「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は、そむきを赦すことである。」


  • ヤコブ書での警告の理由は、「人の怒りは、神の義を実現するものではない」からです。この箇所を柳生訳は「すぐに腹を立てるのは、神のみこころに添わないことだからである。」とし、リビングバイブルは「怒りは、神様の標準から、私たちを遠く引き離すからである」と訳しています。それゆえ、パウロは「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4:26~27)と警告しています。また、「おそれおののけ。そして罪を犯すな。床の上で自分の心に語り、静まれ。義のいけにえをささげ、主に拠り頼め」(詩篇4篇4~5節)とあるのも「怒り」の感情を治める勧めと言えます。
  • 聖書には怒りによって失敗した人物やその事例が記されています。

①カイン・・神が弟アベルのささげものを喜ばれたのを見て、神に対して怒り、弟を殺した。
②モーセ・・イスラエルの民が思うように従ってくれないという怒りによって、神からの指示を正確に受け取り損ねてしまった。

  • 怒りは、神の働き、恵み、正しさが伝わって行くことの妨げとなります。一見正当に思える怒り(義憤)であっても、それをコントロールできなければ、「真理のことば」、すなわち、神のご計画とみこころの実現を妨げる危険な心の状態になっているのです。私たちはその心をイェシュアの十字架の血潮のゆえに消し去っていただかなければなりません。教会が建て上げられるために、謙虚に、恐れをもって、神の言われることに耳を傾けましょう。黙って神の語りかけを聞くということは、人の語りかけにも耳を傾けることにつながるのではないかと思います。


1996.10.27 改訂2017.11.30


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