****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

自分たちを見ならうようにと、模範を示したパウロ

文字サイズ:

9. 自分たちを見ならうようにと、身をもって模範を示したパウロ

【聖書箇所】Ⅱテサロニケ 3章1~18節

ベレーシート

  • テサロニケ人への手紙の第一と第二の間には1年程の間があると言われていますが、第一の最初の章と、第二の最後の章には二つの同じことばが繰り返されています。その二つとは以下の語彙です。

    (1) 動詞の「見ならう」(「ミメオマイ」μιμέομαι)
    新約では4回。うち2回はⅡテサロニケ3章7節と9節。その名詞の「見ならう者」(「ミメーテース」)
    (2) 名詞の「模範」(「テューポス」τύπος)
    新約では15回。うち2回はⅠテサロニケ1章7節とⅡテサロニケ3章9節。

【新改訳改訂第3版】Ⅰテサロニケ1章6~7節
6 あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者(「ミメーテース」μιμητήςの複数形)になりました。
7 こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範(「テューポス」τύπος)になったのです。


【新改訳改訂第3版】Ⅱテサロニケ3章7節、9節
7 どのように私たちを見ならう(μιμέομαι)べきかは、あなたがた自身が知っているのです。あなたがたのところで、私たちは締まりのないことはしなかったし、
9 それは、私たちに権利がなかったからではなく、ただ私たちを見ならう(μιμέομαι)ようにと、身をもってあなたがたに模範(τύπος)を示すためでした。

  • テサロニケ教会は信仰においても、また愛(特に兄弟愛)においても、そして主の再臨の待ち望みにおいても、マケドニヤとアカヤにおける模範的教会でした。「信仰」(「ピスティス」)、「愛」(「アガペー」)、「希望」(「エルピス」)の三つは教会を特色づける三つ巴です。しかしその三つを保持する「忍耐」において、テサロニケ教会が模範としたのは使徒パウロであり、主ご自身でした。このことは神のご計画においてはきわめて重要なことなのです。
  • 「見ならう」べき「模範」(規範)から外れることを、Ⅱテサロニケの3章では「締まりのない歩み」としています(3:6,7,11)。ちなみに、「締まりのない」とは副詞の「アタトクトース」(ἀτάκτως)が使われており、「締まりのない無秩序な生活をする」ことを「アタクテオー」(ἀτάκτέω)という動詞で表現しています。副詞にしても、動詞にしても、この語彙はⅡテサロニケ3章にのみ使われている語彙なのです。いわば聖書の規範からはずれた信者の一つの「型」と言えます。単に怠けているということではなしに、使徒パウロの歩みにならわず、それに従わず、自分本位に歩むことは、今日で言うならば、聖書を救いと生活の唯一の規範として歩まないことにも通じるのです。

1. 模範的教会としてのテサロニケの手本はパウロと主

  • 日本のクリスチャン夫婦の第一世代は、模範とすべき夫婦像、家庭像がありません。多くが手探りの状態です。第二世代にはそれがあります。そのまま模範となる場合もあれば、反面教師的模範となる場合もあります。しかしいずれにしても、聖書という規範があるのです。プロテスタント教会は、「全聖書66巻はすべて神の霊感によって書かれた誤りなき神のことばであり、主イエス・キリストによる救いと生活の唯一の規範(正典)である」と告白しています。聖書がすべての規範なのですが、テサロニケの教会が誕生した時代には、まだ新約聖書は存在していませんでした。したがって使徒パウロたちがしていること、また教えたことがすべての規範だったのです。ですから、それに従わないことはすべて「締まりのない歩み」ということになるのです。
  • 聖書こそすべての規範なのですが、いつの間にか(気づかないうちに)、みことばに対する怠慢ゆえに、惰性に流れていることがあります。私の所属する「日本神の教会連盟」は、米国で始まった「神の教会改革運動」の流れにあります。教派主義に対して、聖書のいうところの「教会」とは異なることをみことばによって主張し、聖書的な教会を建て上げるべく改革運動をなした群れです。その運動が矢島宇吉という方を通して日本に伝わり、現在に至っています。しかし自戒を込めて言いますが、この神の教会改革運動が日本において百年の月日を経てその記念誌が出版されましたが、そこには「改革」という二文字が抜け落ちていたのです。このことは、ある意味で、自分たちの信仰のアイデンティティを見失なわせる重大な過ちです。なぜなら、この二文字がなくなったということは、神のみことばによって生み出される「パイオニア的スピリット」の喪失でもあるのです。人間的な力での「改革」ではなく、神のみことばによって押し出される「改革」の力はきわめて重要です。それを喪失するとき、すべては惰性に流れて行きます。またそうした流れの中で、テサロニケの教会にも登場したぶらさがりが出現してくるのです。
  • こうした事態に陥らないために、パウロは「主があなたがたを導いて」と祈っています。「導いて」と訳された動詞は「カテュースノー」(κατευθύνω)で、「心をまっすぐにする」という意味です。模範や規範にならうことができるために「道を開く」ということを意味します。現状維持、伝統・前例主義ではなく、みことばが指し示すところに従って変えていく改革的な力が求められているような気がします。これは今日の日本の教会全体に求められていることではないかと思います。


2. 「身をもって模範を示す」

  • そのためには、まず自分自身が身をもって模範を示す必要があります。ことばだけであってはなりません。




2015.10.7


a:1651 t:3 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional