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自分のために、偶像を造ってはならない

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106. あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない

【聖書箇所】 出エジプト記20章4, 5節

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【読み】
4 ー・タアー レー フェル ヴェル テーナー 
5 ー・ティシュフヴェー ーヘム ヴェー トオヴェーム

【文法】
20:4
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20:5
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【翻訳】

【新改訳改訂3】
4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。・・どんな形をも造ってはならない。5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
【口語訳】
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。・・どんな形をも造ってはならない。5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。
【新共同訳】
4 あなたはいかなる像も造ってはならない。・・いかなるものの形も造ってはならない。5 あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。
【岩波訳】
4 あなたは自分のために像を作ってはならない。・・いかなる形も(作ってはならない)。5 あなたはそれらにひれ伏しても、それらに仕えさせられてもならない。
【NKJV】
4 You shall not make for yourself a carved image, or any likeness of anything ・・ 5 you shall not bow down to them nor serve them.
【NIV】
4 You shall not make for yourself an idol in the form of anything・・5 You shall not bow down to them or worship them;

【瞑想】

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十戒の第二戒は、礼拝の対象として、目に見える「偶像」、あるいは、いかなる像をも造ってはならないという戒めです。この罪が四代まで、つまり曾孫まで厳しく問われるのは、主なる神が「ねたむ神」であるからです。「ねたむ、嫉妬深い」というととても人間的に感じますが、ここの「ねたむ」と訳されたヘブル語の形容詞「カンナー」(קַנָּא)は「熱愛する」という意味です。そこから「万軍の主の熱心が・・をする」ということや、「心を尽くして」主を愛するということが成り立つのです。

主の熱愛は、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」愛することを求められる方でもあるゆえに、とても他の愛人の入り込む隙はないのです。たとえば、ある夫に数人の妻がいたとします。果たしてそれらの妻を平等に扱うことは可能でしょうか。とても不可能んことです。ましてや、すべて平等に、心を尽くして愛するということはあり得ません。主イエスがいみじくも言われたように、「だれも、二人の主人に仕えることはできない」のです(マタイ6:24)。「だれも」とは「だれ一人として例外なく」という意味です。なぜなら、必ず、「一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(同、6:24)。偶像礼拝をする者は、本人のみならず、三代、四代まで世代を越えて呪われる理由がここにあります。逆に、主を一筋に愛するならば、主の恵みは千代までも及ぶのです。どちらを自分の主人にすべきか、天秤にかけて見るまでもありません。

ところで、4節にある「自分のために」というフレーズはどういう意味として理解すべきでしょうか。正確には、「ロー・タアセー レハー」、「あなたは、あなたのために、(偶像を)造ってはならない」です。「あなたのために」も「自分のために」も同じことですが、この「自分のために」ということぱの意味を正しく悟る必要があります。

ところで、「自分のために」何かをすることは、すべて悪かというとそうではありません。創世記のノアは神から「アセー レハー テヴェト」、つまり「自分のために、箱舟を造りなさい」(創世記6:14)と言われました。洪水による神のさばきによって、地上のすべての者を滅ぼされようとしていたからです。アブラハムも「レフ レハー」と呼びかけられています。「あなたのために 行きなさい」という意味です。ソロモンが王となるときに、主から願い事を言えと言われた時に、彼は、善悪を判断して神の民をさばくために聞き分ける心を与えてくださいと願いました。このソロモンの願いは主のみこころにかないました。そして主はソロモンに「(あなたは) 自分のために長寿を求めず、自分のために富を求めず、・・むしろ、自分のための正しい訴えを聞き分ける判断力を求めたので、今、わたしはあなたの言ったとおりにする」(Ⅰ列王記1:11~12)と言われました。

このような例を思い巡らすことによって、頭ごなしに「自分のために」何かをすることはすべて悪い事というのではなく、してよい事として悪いことがあるということが見えてきます。つまり、「自分のために」とは、神の選びと召しにかなった者として、神の民としてふさわしく生きることの自覚が促されていることばだと考えます。

自分のために箱舟に入ることは、新しい時代を神とともに造ることはノアにとってふさわしいことであったのです。これがノアにとって「自分のために」が意味することです。アブラハムの「レフ、レハー」(行きなさい。あなたのために)とは、神の救いを担う器として、自分の父の家や故郷から出で行くことは神のためであり、それがまた同時に彼の存在の目的と使命においてアブラハムのためだと言えます。

アブラハムから出たイスラエルの民が自分たちの存在目的にふさわしく生きることが求められています。それゆえ、「あなたのために」、偶像を造ったり、それにひれ伏したり、その結果としてそれに仕えさせられてしまうことは、主とのかかわりおいて自らの存在の目的と使命を失ってしまうことになります。それはきわめて厳しく問われることであったのです。まさにこの第二戒には、神によって選ばれ召された者に対して、それにふさわしく生きることを熱望する主の熱い思いが込められているのです。それゆえ、偶像を造ることによって、それらに「仕えさせられてはならない」(使役受動態)のです。

神の民としてふさわしく生きるためには、神が語られることばを聞くことにあります。「口があっても語れず、目があっても見えない。耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。」(詩篇115:5~7)とあるように、偶像の弱点はいろいろありますが、特に最初と最後にある「口があっても語れず、のどがあっても声もたてることもできない」というのが最大の弱点です。ところが聖書の神は「語る神」です。「語る神」は語ることばによって宇宙を造り出し、律法を与えて人に生きる秩序を与えました。それだけではありません。神は語ることによってすべての出来事の意味を私たちに説き聞かせるのです。私たちが神の語ることばを聞くことによって、出来事の意味をはじめて知る(悟る)ことができるのです。もし神が、偶像のように沈黙している神であるならば、私たちはやみの中をさまようことになるのです。したがって、人が神の声(ことば)を聞くことができなることは、それはひとつの神の罰と言えます。預言者のアモスはそれをパンでも水でもなく、「みことばの飢饉」と表現しました(アモス8:11)。

2013.6.4


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