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自分自身を吟味せよ

22. 自分自身を吟味せよ

【聖書箇所】6章41節~49節

はじめに

  • 6章41節~49節まで、一つのまとまりであることが接続詞や不変動詞の存在によって分かります。

    41節 「ところで・・」δέ 新たな展開がはじまる
    42節 「あるいは・・」  言い直された表現
    43節 「というのは・・」γάρ 前のたとえを説明するたとえ
    44節 「というのは・・」γάρ 前のたとえを説明するたとえの続き
    46節 「しかし・・」δέ 現実と実体が異なっていることの指摘
    47節 現実と実体の関係について説明する「家を建てる人のたとえ」


1. それぞれのたとえ話

  • この41~49節までの箇所がひとつのテーマをもって語られていることを想定するなら、そのテーマは何かを考える必要があります。

①41~42節で語られたたとえ話は、自分の目には梁がありながら、それに気づかずに、兄弟の目にあるちり(木くず)を取ろうとする愚かさです。兄弟の目のちりを取り除くには、まず自分の目に大きな梁があることに気づかなければならないということです。

②43~44節は、「木と実」に関するたとえ話です。良い木であるなら良い実を結ぶし、悪い木であるならば悪い実を結びます。木は実によって分かるという真理です。実の良し悪しは木そのものの存在です。

③45節は、「木と実」のたとえと似ています。「心の倉」が良いもので満ちているならば、自然と良い物から出てきます。反対に心の倉が悪ければ、悪い物が出てきます。これが自然の道理です。

④しかし、46節以降では、一見、良い物が出ているように見えても、必ずしも、良い倉ではないという現実があるということです。「しかし、なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのか」という主の問いかけがなされています。そして、「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人かをたとえる話を48節で、反対に行わない人たちがどんな人かを49節で説明しています。

48節の「わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人」は、「地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人」に例えられています。
「深く掘り下げ」と訳された部分は、ギリシャ語原文では「掘り(σκάπω)、そして深く掘り下げた(βαθύνω)」と二つの動詞が重ねられています。また、土台を「据えて(τίθημι)」という動詞、これらの動詞はいずれも「アオリスト能動態」です。すなわち、自分の意志ではっきりとそうすることを決意した事実を表しています。そしてその土台の上に「建てる(οίκοδομέω)」、つまりここの「建てる」は現在形の分詞で、今もなお建て続けるという意味です。建て続けていくのですが、土台はすでに自分の意志ではっきりと据えてしまっているのです。

  • このような人はどんな洪水にあっても、決してびくともしないとイエスは言われました。反対に「聞いても実行しない人」は、土台なしで家を建てた人のようで、同じく洪水になればいっぺんに倒れてしまい、しかもそのこわれ方はひどいものとなるということが警告されています。


2. これらの一連のたとえ話が意味するもの

  • 41~49節までの一連のたとえ話が意味するものは何か、それは、本源や土台の重要性です。「平野の説教」では、神の国の律法について語られて来ました。それを一言で言うならば、「敵を愛すること、人を愛すること」です。しかし、それは表面的な言行ではないということです。この世の基準では、言行一致、あるいは不言実行の人は高く評価されます。しかし神の国に生きる者の基準は、そうした目に見える言行ではありません。それはあくでも結果でしかありません。問題は、良い実を結べば良いということではなく、良き木になること、良いものを出す良い倉となることが求められているのです。「主よ。主よ。」という言行ではなく、自分の心を深く掘り下げて、自分の土台を岩の上に建てることが求められているのです。
  • ここでの岩とは、主イエス・キリストのことを指していると考えることができます。しかし、そこに土台を据えることは、掘り、そしてさらに深く掘り下げることが求められるのです。この世の方向とは逆の方向です。「源泉指向」とでも言えるものです。それは神秘に満ちた領域です。
  • 「深く掘り下げる」と訳された動詞は「バスノー」(βαθύvω)は新約聖書ではこの箇所だけです。ルカはおそらく深い思いでこのことばを使ったのではないかと推察します。家を建てるために地面を掘る人はいても、岩にまで到達するほどに深く掘っている人は少なかったのではないかと思います。イエスの教えを聞いて行うという人と、地面をかなり深く掘る人とが同義なのです。
    画像の説明
  • この点に心を留めなければなりません。私たちは「聞いて行う」ということばを聞いて、「行う」という所に心がとまりやすいのですが、それを支えているものが、神との深い交わりであることに気づかないことが多いのです。このところは見えない部分であり、実に神秘な領域です。ヨハネの福音書ではそれを「とどまる」ということばで表現しています。「とどまる」(メノー)とは、分かるようで分かりにくい神秘な表現です。たやすく体得できることではありませんが、私たちに「とどまる」ということを示してくださった模範者がいます。その方こそ御子ご自身です。聖霊の助けによって、御子と御父との愛に満ちたかかわりこそ真の土台なのです。そこを自分の土台として神を知り、神との親しいかかわりを持つことによって、自然と行いは生まれてくるということをイエスは語りかけているのです。

2011.9.8


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