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良い地は、キリスト


シリーズ「乳と蜜の流れる地」 No.1

「良い地」は「キリストのすべて」

ベレーシート

【新改訳2017】創世記12章1 節
【主】はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。」

●「わたしが示す地」とは具体的には「カナンの地」であり、神はその地を「乳と蜜の流れる地」と命名されました。この表現は旧約で18回の言及があり、申命記では6回(6:3/11:9/26:9, 15/27:3/31:20)使われています。その地は神の目には「良い地」「エレツ・トーヴァー(אֶרֶץ טוֹבָה)」(申命記8:7)であり、「安住の地ゆずりの地」(申命記12:9)、「父祖たちに与えると誓ったこの地」(エレミヤ32:22)、「どの地よりも麗しい地」(エゼキエル20:15)、「主が絶えず目をとどめておられる地」(申命記11:12)です。これらはすべて「キリスト」(包括的キリスト)を啓示するたとえとなっているのです。

●昨年、AC(=アシュレークラス)で創世記第一章の講義の際、私はACのメンバーの一人ひとりに質問してみました。それは、「第一日から第六日までの神の創造の中で、第二日だけ『良し』ということばがないのはどうしてですか」というものです。ところがその質問に、だれ一人として正しく答えることができませんでした。答えは、第二日だけ「その地」ということばがないからなのですが、なにゆえ答えることができなかったのでしょうか。それはおそらく、「その地」に対する関心が希薄であるからだと思われます。ところが神は違います。聖書は初めから最後まで、「その地」から離れて語られることはありません。「その地」とは「カナンの地」です。地球の一画にすぎない「その地」に神がこだわり続けておられるのは、それがキリストを啓示しているからです。ウイットネス・リーは「すべてを含むキリスト(The All Inclusive Christ)」(1962年12月、カリフォルニア州ロサンゼルスでの第一回目の大会で語られた説教)という本の中で、彼がクリスチャンになって30年以上、そのことに気がつかなかったと記しています。私も昨年、信仰50年目にしてそのことを彼を通して教えられました。

●聖書が言う「その地」(「ハーアーレツ」הָאָרֶץ)とは「カナンの地」であり、そのすべてがキリストを啓示しています。創世記1章1節の「はじめに神が天と地を創造された」の「地」は定冠詞付きの地、つまり「その地」なのです。一般的な地、土地、地球を意味しているのではありません。神は「その地」に対してとことんこだわっています。なぜなら「その地」は「良い地」として、キリストを啓示しているからです。「幕屋」がキリストを証しする写しと影であるように、「その地」もキリストを証しする写しと影となっているのです。ですから、「その地」がない第二日に、神の「良し」がないのです。さらに言うなら「その地」は、ヨハネの黙示録21章にある「新しいエルサレム」の写しと陰でもあります。「その地」の本体は、この「新しいエルサレム」(יְרוּשָׁלַיִם הַחֲדָשָׁה)です。それは、千年間のメシア王国の後に、神の幕屋として新しい天から新しい地に降って来ます。主にある者たちが永遠にいるべきところはどこなのでしょうか。それは、永遠の神の幕屋である「新しいエルサレム」なのです。

●「良い地」は、イェシュアが語った天の御国についての奥義そのものです。マタイの福音書13章にある「種蒔く人のたとえ」にある「種」も「種蒔く人」も、そして「良い地」もすべてがキリストを啓示するたとえです。今回のメッセージでは、「良い地」に植えられた者がどんなに幸いであるかということを、マタイの福音書13章から学びたいと思います。そして次回から、イスラエルの民がヨシュアに率いられて侵入・征服・占領して行った「約束の地」が、「良い地であるキリスト」のすべてを啓示していることを学んでいきたいと思います。

1.「種蒔く人のたとえ」

【新改訳2017】マタイの福音書13章3節
イエスは彼らに、多くのことをたとえで語られた。「見よ。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

●イェシュアは「天の御国」を多くのたとえで語りましたが、その中でも「種を蒔く人」の話は重要です。イェシュアがたとえを語り出すときに「見よ」(「ヒンネー」הִנֵּה)があります。この語彙があるときは要注意です。というのは、これは旧約時代の預言者が御国のことを啓示するときに使った語彙だからです。預言者たちが「見よ」と語り始めたのは、イェシュアが「見よ」と言って御国のことを語り出す、その写しなのです。それは、この「御国」(「マルフート」מַלְכוּת)がこの地に来ることが神の関心事だからです。

【新改訳2017】マタイの福音書13章4~9節
4 蒔いていると、種がいくつか道端に落ちた。すると鳥が来て食べてしまった。
5 また、別の種は土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。
7 また、別の種は茨の間に落ちたが、茨が伸びてふさいでしまった。
8 また、別の種は良い地に落ちて実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍になった。
9 耳のある者は聞きなさい。」
(※ここでの「良い地」は「アダーマー・トーヴァー」אֲדָמָה טוֹבָה、あるいは、「一画の良い地」を意味する
「ヘルカー・トーヴァー」חֶלְקָה טוֹבָהとも訳されています。)


(1) 「種蒔く人のたとえ」のこれまでの解釈

●「種蒔く人のたとえ」の従来の解釈を、18~23節から述べてみたいと思います。そこでは、「種」とは神のみことばであり、「地」とは私たちの心であるというものです。しかも私たちの心には四種類あって、どの心にもみことばの種は等しく蒔かれるのです。ただその違いはみことばを聞く態度です。私たちの聞く態度によって、道端にもなり、岩地にもなり、茨の中ともなり、良い地にさえなれるというものです。
(1) 道端に蒔かれるとは、みことばを聞いても理解しようとしない頑固な心の人のことで、自分の得た経験や知識でものごとを考え、砕かれていない人です。
(2) 岩地に蒔かれるとは、みことばが心にすぐに入りますが、根がないために、しばらく続くだけで枯れてしまう人のことで、みことばにいち早く感動しますが、困難や迫害が起こるとすぐつまずいてしまう人です。
(3) 茨の中に蒔かれるとは、問題は心にではなく、外にある人です。この世には信仰をふさいでしまうような世の思い煩いと富の誘惑がたくさんあり、それらに支配されることで、信仰が窒息してしまう人です。
(4) 良い地に蒔かれるとは、種であるみことばを素直に聞いて悟る人のことです。そのような人は豊かに成長して、実を結びます。

●道端でも、岩地でも、茨の中でもなく、神の前に何もない新地(さらち)のような心とならなければならない。そうすることによって、あなたは何十倍、何百倍もの実を結ぶでしょう・・・という教訓的な努力目標的な話となってしまいます。分かりやすいたとえの解釈ですが、それでは奥義とは言えません。このたとえの要点は9節の「耳のある者は聞きなさい」が意味するところにあります。10~17節の部分には、なぜイェシュアがたとえを用いて話すのかが記されています。そのことを理解することが重要な点です。

(2) なぜイェシュアはたとえで話されるのか

【新改訳2017】マタイの福音書13章10~17節
10 すると、弟子たちが近寄って来て、イエスに「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った。
11 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されて」いません。
12 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。
13 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。
14 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
15 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。」
16 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
17 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。

●上記の箇所を一つずつ見ていきたいと思います。
10節の「なぜ、彼らにたとえでお話しになるのですか」と言った弟子たちの問いは、きわめて重要です。なぜならこの問いがないところには奥義は隠されたままで、開かれることは決してないからです。ここでの「たとえ」は複数形で「数々のたとえ」を意味します。「たとえ」はギリシア語で「パラボレー」(παραβολή)です。「パラボレー」とは、元々あるものの「傍らに(パラπαρα)」、もう一つのものを「置いて(バローβολλω)」比較することを意味します。つまり新しい事柄と既知の事柄とを合わせて考えることで理解するという意味です。ところがヘブル語の「たとえ」を意味する「マーシャール」(מָשָׁל)は、少々意味が異なります。ヘブル語の「マーシャール」には「謎」という意味があります。その動詞である「マーシャル」(מָשַׁל)は「たとえを語る」という意味のほかに、「支配する、統治する」という意味があります。つまりイェシュアが「たとえを語る」のは、ご自分が御国を支配するメシアとしてふさわしい支配・統治のあり方そのものだということです。つまり、イェシュアが語るたとえの本意を「尋ね求めること」がなければ「謎」となってしまい、その結果として御国から締め出されてしまうということなのです。 

11節 イエスは答えられた。「あなたがたには天の御国の奥義を知ることが許されていますが、あの人たちには許されていません。」

●ここの「あなたがた」とはイェシュアの弟子たちのことです。そして弟子たちは「天の御国の奥義」を知ることが許されているが、「あの人たち」には許されていないのです。「あの人たち」とはイェシュアの弟子以外の者たちという意味です。「許されている」と訳されていますが、原語は「与えられている」という意味の「ディドーミ」(δίδωμι)が使われています。つまりイェシュアの語る「天の御国」は、弟子たちにはその知識と祝福が与えられていますが、弟子たち以外の人々にはそれが与えられていないということです。「奥義」(「ミュステーリオン」μυστήριον)ということばは、マタイの福音書ではここ一回限りの語彙ですが、とても重要です。「奥義」とは、「世々の昔から、多くの世代にわたって隠されてきたことが、神の定めた時に、特定の人だけに明らかにされること」を意味します。パウロはその一人でした。神は彼に多くの奥義を啓示されました。イェシュアのほかに、「奥義」ということばを最も多く使っているのはパウロだけで、彼が記した手紙の中で21回も使っています。奥義を別のことばで言い表すなら、それは「キリストにある栄光の望み(=メシアによる王国の支配・統治のすばらしさ)」です。

12節 持っている人は与えられてもっと豊かになり、持っていない人は持っているものまで取り上げられるのです。

●ここで「持っている人」と「持っていない人」との対比がなされています。「持っている人」とは「天の御国に関する知識と祝福を与えられている者」のことであり、その者がさらに得ようとするなら、それが豊かに与えられます。しかし反対に「持っていない人」とは「御国に関する知識と祝福を持っていない者」のことであり、その者は契約の民としてすでに与えられている特権までも(神によって)奪い取られるということを意味しています。

13節 わたしが彼らにたとえで話すのは、彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないからです。

●イェシュアが「たとえ」で話す目的は、「彼らが見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、悟ることもしないから」とあります。イェシュアによれば、彼らは病人が癒やされ、多くの奇蹟を見たりしながら、さらにはイェシュアの語ることばを聞きながらも、それを理解しようとも、悟ろうともしないということです(「悟る」のヘブル語は「ビーン」(בִּין)で「理解する、悟る」)。したがって彼らは悔い改めることがなく、救いに至ることもないのです。これが、イェシュアがたとえで語られる理由です。たとえで語るのは、神に尋ね求めて悟ろうとしない者に対するさばきの一面があることを示しているのです。

14節 こうしてイザヤの告げた預言が、彼らにおいて実現したのです。『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない。
15節 この民の心は鈍くなり、耳は遠くなり、目は閉じているからである。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返ることもないように。そして、わたしが癒やすこともないように。』

●「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟ることはない。見るには見るが、決して知ることはない」のは、心が鈍くなっているためで、自ら神に立ち返ろうとしていないからだとしています。これはイザヤがすでに預言していたことであり、イェシュアがたとえで語ることによって実現させたと言えます。

16節 しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです。
17節 まことに、あなたがたに言います。多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けませんでした。

●10~17節の中で、16節の「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いです。また、あなたがたの耳は聞いているから幸いです」という部分が最も重要な部分です。なぜなら、「多くの預言者や義人たちが、あなたがたが見ているものを見たいと切に願ったのに、見られず、あなたがたが聞いていることを聞きたいと切に願ったのに、聞けなかった」とあるからです。「多くの預言者や義人たちが切に願った」ことは、まさに「天の御国の到来」のことであり、それがメシアであるイェシュアにおいて実現されることでした。そして再度たとえが語られます。これは群衆に対してではなく、弟子たちに対するものです。弟子たちとは「御国のことばを聞いて悟る者」として選ばれた者たちで、その者たちは実を結ぶ者たちです。ですから、「幸いです」と言われているのです。ここは努力目標としての教訓的教えではありません。次のみことばを再度読んで、イェシュアの言わんとすることを読み取らなければなりません。

2. 良い地に植えられる人は、みことばを聞いて悟る人

【新改訳2017】マタイの福音書13章18~23節
18 ですから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。
19 だれでも御国のことばを聞いて悟らないと、悪い者が来て、その人の心に蒔かれたものを奪います。道端に蒔かれたものとは、このような人のことです。
20 また岩地に蒔かれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受け入れる人のことです。
21 しかし自分の中に根がなく、しばらく続くだけで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
22 茨の中に蒔かれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いと富の誘惑がみことばをふさぐため、実を結ばない人のことです。
23 良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです。本当に実を結び、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結びます。

●「良い地に蒔かれたものとは、みことばを聞いて悟る人のことです」とあります。主の弟子たちは良い地に蒔かれた者たちであり、みことばを聞いて悟る人と同義だということです。「良い地」とはキリストです。「道端」「岩地」「茨」といったサタンの働きの中にあっても、このような者たちが存在することが実に不思議なことなのです。「みことばを聞いて悟る」とはどういうことなのでしょうか。「みことば」の内実とは「御国のことば」であり、それを聞いて悟る者こそが良い地に蒔かれた者なのです。「聞く」も「悟る」も共に現在分詞形であることから、じっくり聞き続け、深く悟り続けるというニュアンスです。二つの語彙は密接につながっています。「聞いて悟った人」とはどのような人なのでしょうか。おそらく使徒パウロのように「目から鱗のような物が落ちる経験をした人」です。つまり自分の「理解の型紙」が破れた人、自分のたましいの硬い部分が砕かれる経験をした人、使徒パウロがそうであったように、考えも生き方も180度大きく変えられてしまった人、そして神に専心する者となる人のことです。このような人が「良い地」に植えられた人なのです。そのような人はあらかじめ「世界の基が据えられる前から、キリストにあって選ばれていた」人でもあるのです(エペソ1:4)。私たちの努力によって良い地に植えられるのではありません。神の一方的な恵みによって選ばれ、良い地に植えられるのです。

●それはまさに神の定めの秘義です。良い地に植えられ、育つ人とはこのような人のことであり、「あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶ」とあります。「良い地」とはキリストです。そのキリストが語った「御国のことばを聞いて悟った人」である主の弟子たちは、それぞれに百倍、六十倍、三十倍の差はあっても、実を結ぶことに違いはありません。それはメシアの主権によって定められたものです。いずれにせよ、御国のことばに対する悟りが与えられるのは、神からの恵みとしか言いようがないのです。

べアハリート

●「種蒔く人のたとえ」は、主によって選ばれた弟子たち(=幼子たち、小さな者たち)に対するイェシュアの最大の励ましであり、これこそが「この世の取るに足りない、弱い」者たちを祝福しようとする「天の御国の奥義」と言えるのではないでしょうか。イェシュアがこのたとえで話すのは、敵であるサタンの働きがあるこの世において(道端、岩地、茨)、選ばれた御国の民がますます「良い地」であるキリストに根ざす(コロサイ2:7)ことによって、より豊かに実を結ぶようになる励ましだということを心に留めたいと思います。このように、神の約束の地である「カナンの地」(「乳と蜜の流れる地」)にある「良い地」のすべてがキリストを啓示し証ししているとするなら、私たちもそこに導かれた者としてその一つひとつを享受していきたいと願わされます。最後に、以下のパウロのことばを心に留めながら、「キリストを得ること」が神の求めておられることだと知って、それを経験する者となりたいものです。

【新改訳2017】ピリピ人への手紙3章8~12節
8 ・・・私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、
9 キリストにある者と認められるようになるためです。・・・
10 私は、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、
11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです


三一の神の霊が私たちの霊とともにおられます。


2023.3.19
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