****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

良い方を自ら選び取ったマリア

37. 良い方を自ら選び取ったマリヤ

【聖書箇所】 10章38節~43節

はじめに

  • この聖書箇所はこれまでもくり返し味わってきたところですが、再度、上からの光を求めて味わってみたいと思います。これまでの理解の型紙を一旦横に置いて、新たな気持で読取りたいと思います。
  • これまでのコンテキストを考えるとき、イエスが弟子たちに語った「天にあなたがたの名が書き記されていることを喜ぶ」ということは、父と子が知り合っているいのちのかかわりを喜ぶということでした。次の「律法の専門家」に対しても扱われているテーマは「永遠のいのち」です。律法の専門家の関心は「なにをしたら永遠のいのちを自分のものとすることができるか」でした。イエスは彼に対して、有名な「サマリヤ人のたとえ」話をしました。たとえ話の中に登場する「あるサマリヤ人」とはイエス自身のことです。なぜなら、サマリヤ人の「かわいそうに思って」(33節)という感情はイエスにのみ使われている語彙(「深いあわれみ」をあらわす動詞「スプランクニゾマイ」σπλγχvίζομαιだからです。このような感情もって強盗に襲われた人にかかわったサマリヤ人の源泉がどこから来ているのかということに、律法の専門家は気づくべきでした。イエスも別の所で、律法学者たちにこう語っています。「あなたがたは、聖書の中に永遠のいちのがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。」(ヨハネの福音書5:39~40)と。
  • 続く「マルタとマリアの話」(ルカ10:38~43)もこうしたコンテキストの流れの中で理解する必要があります。つまり、永遠のいのちという視点から二人のした行為について考えなければなりません。
  • 二人の対照的な姿を見ていく前に、今回発見したひとつのことは、マリアはマルタの妹とは限らないということです。私は信仰に入ってからずっと新改訳聖書を使っていますので、それによれば、はっきりとマリアはマルタと「妹」だと訳しているのです。ところが、そのように訳しているのは限られた訳だけです。新改訳、回復訳、そして口語訳(口語訳はどういうわけかこのルカの10章のみ)が「妹」と訳しています。しかし、新共同訳をはじめ多くの聖書が「姉妹」と訳しているのです。「姉妹」と訳された原語は「アデルフェー」άδελφήで「姉妹」と言う意味です。ですから、見方によれば、マリアがマルタの姉と解釈もできなくはありませんが、聖書はそのようには明言していません。同時に、マリアがマルタの妹だとも明言してはいないということです。
  • 原語でテキストを確かめることがなければ、新改訳が訳したように、マリアはマルタの「妹」だという既成イメージしか持ち得ません。原語を調べることで、そうしたこれまで自分の中に作られている既成概念が打ち破られるのです。イエスの語ることはば当時の人々にとってはどれもこれも既成概念を打ち破るものでした。イエスの言動は、いのちの回復をもたらすために常に既成概念を揺さぶることからはじめています。私たちの霊性の回復において、このことは尊い原則だと信じます。

1. ルカは「マルタ」と「マリヤ」を対比させている

  • ルカは「永遠のいのち」というテーマの流れの中で、マルタの行為とマリヤの行為を対比するように描いています。それは訳文では見ることができませんが、原文(ギリシャ語)の文法、特に動詞の時制と様態を調べるとわかります。この場合、インターリニアが役立ちます。

(1) 直説法・アオリスト時制・中態
【マルタ】 38節「(イエスを)喜んで家にお迎えした。」
【マリヤ】 42節「よい方を選んだのです。」


アオリスト時制は過去のある時点で起こったや決断したことを意味します。中態とは、能動、受動とは異なり、自分自身、自分から、自分のためにという意味があります。マルタもマリヤもいずれもイエスを迎えるために歓迎しようとしたのですが、その有り様が異なっていたのです。どちらも強制されてしたのではなく、それぞれ自ら進んでしたことなのです。それがマルタの方は「もてなし」という形で、マリヤは「聞き入る」という形だったのです。二人とも意志の強い姉妹だったようです。


(2) 直接法・未完了形
【マリヤ】39節「主の足もとに座って、みことばに聞き入っていた
【マルタ】40節「いろいろともてなしのために気が落ち着かなかった(忙殺され通しだった)


未完了形は継続的に現在も起こっていることを表わす時制です。一方は静かに聞き入り、一方は忙しく落ち着かずにいたのです。


2. イエスのマリヤに対する弁護

  • ところで、原文では、イエスの一行ではなく、イエスひとりだけを迎えたように記されています。ここはなかなか気づかれていない重要な点かもしれません。イエスの一行を迎えたのであればマルタに同情する者が多く起こると思います。しかし、もたなす相手はイエスおひとりです。とはいえ、イエスおひとりを迎えるのであったとしても、最高のもてなしをしたいと考えるならば、当然そのことで頭がいっぱいになるはずではないでしょうか。
  • イエスに対するもてなしはしなければなないものではありませんでした。マルタがイエスを自ら歓迎してもてなそうとしたのです。ところが、それがしんどく感じられたとき、イエスの足元でイエスの話に聞き入っているマリヤの姿を見た時、自分がみじめに感じられたのかもしれません。しかもイエスは耳を傾けるマリヤの姿にとても喜んでいるように見えたとき、いたたまれなくなって、40節にあるように、「主よ、妹(姉妹)が私だけにおもてなしさせているのを何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、姉妹に言ってください」と言ったのかも知れません。いわばマルタはここで自分のやり方のほうが当然正しい迎え方だという思いが彼女にあったのかもしれません。ですから、イエスの方からマリヤに「私の手伝いをするように言ってください」と要請したのです。そのとき、マリヤを弁護するイエスのことばがマルタに語られました。その弁護の言葉には、鋭く、かつ深い真理が隠されています。
  • もてなすこと(接待のこと)はそれ自体すばらしいことですが、そのことでいろいろと心配し、心が混乱していたマルタに、イエスは優しく諭します。「マルタ、マルタ」と。この二度名前を続けて呼ぶ表現は親愛の情を込めたヘブル的表現です。
  • イエスの諭しのことばには三つのことが語られています。

    (1) 必要なことはただ一つであること
    (2) マリヤは良い方を選び取ったこと
    (3) マリヤからそれが取り去られてはならないこと

  • 上記の三つは切り離すことのできない密接な関係にあります。必要なこと、肝心な事柄、本質的な事柄はただ一つしかないこと、それをマリヤは自ら選び取ったことを評価し、それが彼女から取り去られてはならないほど重要だということです。そして、それは、サマリヤ人のたとえがイエス・キリストを指し示していたように、ここでの話もマリヤの姿勢がそのまま御父に対する御子イエスの生き方であることを示唆していると言えるのです。

むすび

  • 今日、教会では多くの奉仕があり、なすべきことが数多くあります。しようと思えば思うほどきりがないほどです。そのような生き方をしている人は、マリヤに見られるみことばに「聞き入る」という生き方がなかなか理解できません。また、真似ができません。人を愛するためのさまざまな奉仕の力の源泉は、第一戒の「神を愛する力」にあります。しかしこのことについて多くの人が何をしてよいのか分からずにいることが多いのです。分かったとしてもそれを継続していく力がないのです。みことばに聞き入るということは神を愛することです。しかしそれは決してたやすいことではないのです。そのためか、多くの人は奉仕をすることで神を愛しているようかのに思い込んでいるのです。これは、律法の専門家が言ったように「なにをすれば永遠のいのちを自分のものとできるか」という設定にすり替わってしまう霊的な罠です。今日、私たちは、今一度、「わたしにとどまりなさい」、「わたしの愛のうちに」、「わたしのことばのうちに」と言われたイエスのもとに行く必要があるのです。
  • ちなみに、イエスに諭されたマルタがマリヤのように、イエスの言葉をこのあと「聞き入った」かどうかはわかりません。教会に立てられているリーダーたち(牧師や長老)が、マルタ・スタイルで生きようとすれば、信徒たちはマリヤとして生きることができなくなります。マリヤ・スタイルは教会を挙げて取り組むべき大事業だと信じます。その根拠は主イエスのマルタに語ったことばが物語っているからです。
  • 最後に、E.H.ピーターソンがルカ10章43節を以下のように訳しています。

One thing only is essential, and Mary has chosen it- it's the main course, and won't be taken from her.

2011.12.29


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