****** 教会は、ヘブル的ルーツとつぎ合わされることで回復し、完成します。******

花婿の前で自由奔放に踊る花嫁の姿

文字サイズ:

雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

19. 花婿の前で自由奔放に踊る花嫁の姿

【聖書箇所】 7章1〜9節

ベレーシート

  • 新改訳聖書では、7章1節は「高貴な人の娘よ・・」と始まりますが、新共同訳、フランシスコ会訳聖書では6章13節の「帰れ。帰れ。」を7章1節としています。どちらにしても、内容的にどうつながっているかが重要です。6章13節も前半と後半で語っている人称が異なります。前者は「おとめたち」であり、後者は「花婿」です。

【新改訳改訂第3版】雅歌6章13節
〔おとめたち〕
帰れ。帰れ。シュラムの女よ。帰れ。帰れ。私たちはあなたを見たい。
〔花婿〕
どうしてあなたがたはシュラムの女を見るのです。二つの陣営の舞のように。


【新共同訳】雅歌7章1節
〔おとめたち〕
もう一度出ておいで、シュラムのおとめ/もう一度出ておいで、姿を見せておくれ。
〔花婿〕
マハナイムの踊りをおどるシュラムのおとめに/なぜ、それほど見とれるのか。

  • 新改訳の6章13節(=新共同訳の7章1節)の前半の部分の「帰れ」と訳されている原語は「シューヴィー」(命令3単女)です。この呼びかけの主体は「おとめたち」で、諸国の民です。彼女たちは花嫁に花婿のもとに帰るように呼びかけます。なぜなら、花婿だけを見つめる花嫁の姿を見たいからです。
  • ここでは花嫁のことを「シュラムの女」と言っています。「シュラム」とは、たとえ冠詞がついていたとしても、地名を表わすものではなく、「ソロモン」と同じ語幹(שׁלם)を持っており、「平和をつくる者」という意味と考えられます。花嫁は神のご計画の完成の鍵を握っている存在だからです。
  • 新改訳の6章13節(=新共同訳の7章1節)の後半の部分は、新共同訳の方がわかりやすいように思います。「おとめたち」の呼びかけを聞いた花婿が、彼女たちに「マハナイムの踊りをおどるシュラムのおとめに/なぜ、それほど見とれるのか」と問い返している部分です。「マハナイムの踊り」とは何でしょうか。「マハナイム」とは「二つの陣営」「二組」という意味で、おそらく花嫁が裸で踊っていると解釈します。花嫁が裸で踊っているというのは尋常ではありません。しかし、です。主の前で裸で喜び踊った実際の人物がいるのです。それはダビデです。
  • 主の契約の箱をエルサレムに運び入れようとしたダビデとイスラエルの全家は、歓声をあげ、角笛を鳴らして主の箱を運び上りました。その時、ダビデは主の前ではねたり、踊ったりしたことが聖書に記されています(Ⅱサムエル6:12〜23)。ダビデは身にまとっていた亜麻布のエポデを脱ぎ捨て、裸で、主の前に力の限り踊ったのです。それを見ていたダビデの妻ミカルは夫を見下げました。しかし、ダビデは「私は主の前で喜び踊るのだ」とミカルのことばをはね返します。これは花嫁の特性を表わす一つの型です。つまり、花婿の前で臆面もなく裸で踊る花嫁(=教会)の姿でもあるのです。そのことが、7章1節にある「高貴な人の娘よ」(新共同訳は「気高いおとめよ」)が意味するものです。

1. 「高貴な人の娘」とは

  • 「高貴な人の娘」と訳された「バット・ナーディーヴ」(בַּת־נָדִיב)。これはむしろ「自由奔放な娘」という意味で訳されるべきです。なぜなら、形容詞「ナーディーヴ」の動詞「ナーダヴ」(נָדַב)は、「自ら進んで〜をする」というきわめて自発的な行動を意味するからです。花婿の前で、他人を気にせず、その視線にとらわれず、ダビデがしたように、自分の思うままに自らを表現することばだと解釈します。
  • 「ナーディーヴ」(נָדִיב)は、既成の枠にとらわれない斬新さ、意外性をもった、型破りの、独創性のある生き方を意味します。ダビデが主の箱をエルサレムのシオンという場所に設置して礼拝したことは、斬新な発想です。なぜなら、当時はギブオンというところにモーセの幕屋があったからです。本来ならば、そこに主の箱が置かれるべきでしたが、ダビデは神様から特別に示されたわけでもないのに、モーセの幕屋とは異なるダビデの幕屋という新しい礼拝スタイルを創り出しました。また多くの楽器を作らせました。とは言っても、正しくは、天にある礼拝を彼は啓示されたのかもしれません。礼拝の中に様々な楽器を伴う音楽を取り入れたことは、当時において全く新しいことだったのです。ダビデの礼拝改革は今日の教会のモデルともなっているのです。
  • 花嫁なる教会の中に、こうした既存の枠組みにとらわれない精神(スピリット)で主に仕えるということがないとしたら、それは生きた教会とは言えません。制度や組織を存続させることだけに終始し、制度化した教会、固定化した教会は、次第に花婿を慕い求める心を失った花嫁となってしまう懸念があります。花嫁の特性の中に、こうした主に対する良い意味での自由奔放性があることは、花婿の目を釘付けにしただけでなく、花婿が快く思ってくださるということを物語っています(雅歌7:6)。そしてまた、「おとめたち」(=諸国の民)もそんな花嫁に見とれているのです。これは雅歌におけるこれまでにない花嫁の新しい側面と言えます。

2. 自由奔放に踊る花嫁を賞賛する花婿のことば

  • 踊る花嫁を見る花婿は、花嫁の「足」に始まり、「もも」「ほぞ」「腹」「二つの乳房」「首」「目」「鼻」「頭」「髪」へと目を移しながら、その素晴らしさを賞賛しています。それが意味するところを一つ一つ取り上げ、そこから今日的メッセージを汲み出してみたいと思います。

(1) 「サンダルの中のあなたの足はなんと美しいことよ。」

●「」(「パアム」פַּעַםの複数)は神の「良い知らせを伝える」ことの象徴です。イザヤ書52章7節にも「良い知らせを伝える者の足は、山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、『あなたの神が王となる』とシオンに言う者の足は。」とあり、エペソ書6章15節にも「足には平和の福音の備えをはきなさい。」とあります。柳生訳はこれを「平和の福音を伝えることの喜びを、いわば、靴として足にはき」と訳しています。とすれば、「サンダルをはいたあなたの足は美しい」(新共同訳)の「サンダルをはいた」の意味が了解できます。

●「神の恵みの福音」もさることながら、教会の今日的課題としてはパウロのように「御国の福音」を余すところなく伝えることです(使徒20:27)。これは神のご計画の全体にかかわるもので、多くの聖書的知識が不可欠となります。神のことばをそれほど読まなくても「神の恵みの福音」にあずかることはできますが、「御国の福音」を告げ知らせるためには、みことばを深く読む必要があるのです。


(2) 「あなたの丸みを帯びたももは、名人の手で作られた飾りのようだ」

●「もも」(「ヤーレーフ」יָרֵךְの双数形)は「」という意味もあります。ももから腰にかけた部分の美しいまるみは名匠の手によるものだとしています。「腰」は生殖力の宿る「生命の泉の象徴」です。神はヤコブに対して「わたしは全能の神である。生めよ。ふえよ。一つの国民、諸国の民のつどいが、あなたから出て、王たちがあなたの腰から出る。」(創世記35:11)と約束しています。また、ダビデに対しても「あなたがその宮を建ててはならない。あなたの腰から出るあなたの子どもが、わたしの名のために宮を建てる。」(Ⅰ列王記8:19)と語っています。

●聖書には「腰に帯を締める」という表現がありますが、イスラエルの民がエジプトを出る際、「あなたがたは・・腰の帯を引き締め、足に、くつをはき、手に杖を持ち、急いで食べなさい。これは主への過越のいけにえである。」(出エジプト12:11)とあるように、「腰に帯を締める」ことは「①心構え、②旅立ちの象徴」です。

①エペソ書6章14節においては敵との戦いの備えとして「腰には真理の帯を締め」とあります。
②Ⅰペテロ1章13節には「心を引き締め(原文=心という腰の帯を締め)、身を慎しみ、イエス・キリストの現れのときあなたがたにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望みなさい。」とあります。伝道や教会成長といったことよりも最優先にしなければならないことは教会のゴールの明確化です。これが「心の腰の帯を締める」ということであり、今日の教会に最も欠けていることなのです。


(3) 「あなたのほぞは、混ぜ合わせたぶどう酒の尽きることのない丸い杯」

●「ほぞ」と訳された「ショール」(שֹׁר)は旧約で3回しか使われていません。「ほぞ」(臍)とは「へそ」のことで、身体の中心部分です。「丸い杯」とありますから、円型のくぼみのあるきれいなへそが杯にたとえられ、そこに「混ぜ合わせたぶどう酒」が満たされているのです。新共同訳は「ほぞ」を「秘められたところ」と訳しています。

●花嫁なる教会のうちに秘められた最も重要なことは、花婿なるイェシュアの血潮です。イェシュアが最後の晩餐で弟子たちに「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。」と言われました(マタイ26:27~28)。これはイェシュアが制定された聖餐のことで、尽きることのない「いのちの象徴」です。聖餐の本質は、花嫁が花婿の血できよめられ、傷なき者として御前に立つ婚約者としてくださったことを想起しつつ、やがて来られる花婿を待ち望む大切な時なのです。


(4) 「あなたの腹は、ゆりの花で囲まれた小麦の山」

●「ほぞ」も身体という意味を持っていますが、「腹」(「ベテン」בֶּטֶן)も同様です。聖書では「腹」はしばしば本能的欲望の満足の象徴として使われています。使徒パウロは「キリストの十字架に敵対する者について「彼らは腹を神とし」と表現しています。しかし、花嫁の「腹」は逆に最も内面的で価値あるものを象徴しています。イェシュアは「わたしを信じる者は、・・その人の腹から、生ける水の川が流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)と言い、腹が花嫁にとっていのちの泉であることを語られました。

●「ゆりの花」(複数)とは選ばれた者たちを象徴し、その「ゆりの花」で囲まれた「小麦の山」とは「豊穣の象徴」であり、神から多くの豊かな賜物を与えられていることを意味します。


(5) 「あなたの二つの乳房は、ふたごのかもしか、二頭の子鹿」

●「二つの乳房」は「全イスラエル」と「教会」を表わす象徴かもしれません。この二つは本来、神の栄光をこの地上に表わすために神によって創造されたものです。「乳房」(「シャド」שַׁד、双数形は「シャーダイム」שָׁדַיִם)はいのちを育む源泉であると同時に、神の「栄光の現われの象徴」です。「全能の神」は「エール・シャッダイ」(אֵל שַׁדַּי)の訳で、「乳房の神」とも訳されます。

●神のマスタープランによれば、この二つは花婿の王国(メシア王国)においてひとつとなります。つまり、ユダヤ人と異邦人(聖書にはこの二つの分け方しかありません)が一つになるのです。イスラエルの民が民族的にイェシュアをメシアとして信じるならば、まさに教会と同じことになりますが、聖書はそのようには表現せず、メシアを信じる二つの群れ、すなわち、神のご計画の最終段階でのイスラエルと教会は「聖なる都、新しいエルサレム」(黙示録21:2)と表現されています。

●いずれにしても、この両者は「霊的な乳」である花婿のことばによって絶えず養われる必要があります。アモス書8章11節によれば、「見よ。その日が来る。──神である主の御告げ──その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、【主】のことばを聞くことのききんである。」とあります。それはイェシュアが語った「御国の福音」に対して無関心なために、みことばの真の意味を悟ることがなく、ききんを招くことになるという預言です。


(6) 「あなたの首は、象牙のやぐらのようだ」

●首は頭とからだをつないでいる部分です。首が刎ねられれば生命は断たれます。その首が「象牙のやぐら」にたとえられています。象牙は貴重なものですが、それは象のいのちを犠牲にして得られるものです。それゆえ、「象牙のやぐらの首」とは「殉教精神の象徴」です。教会の歴史はステパノの殉教に始まり、ローマでは多くのクリスチャンたちが迫害によって殉教しました。殉教者の血は信仰の継承にいのちを与えます。神のヴィジョンを実現するために、また花婿のためにいのちをささげるという殉教の精神は、いつの時代においても、花嫁なる教会に終末論的な希望への開眼を与えてきたのです。


(7) 「あなたの目は、バテ・ラビムの門のほとり、ヘシュボンの池」

●雅歌4章1節では、花嫁の目が鳩にたとえられていました。それは純粋さと忠誠心を表わすものですが、ここでは、花嫁の目が「ヘシュボンの池」にたとえられています。「バテ・ラビムの門」とは「ヘシュボン」の城門の一つの名であり、そのほとりには池があったようで、花嫁の目の美しさがこの池にたとえられているのです。この池は透き通った池で、心のきよさを象徴しています。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」(マタイ5:8)とあるように、「心のきよさ」は神を知ることとつながっています。

●また、「ヘシュボン」(חֶשְׁבּוֹן)(アモン人の王シホンの首都)の語源である動詞の「ハーシャヴ」(חָשַׁב)は、ものごとを深く考える、計算するといった意味を持つことから、聡明さを象徴するとも考えられます。


(8) 「あなたの鼻は、ダマスコのほうを見張っているレバノンのやぐらのようだ」

●「鼻」(「アフ」אַף)は匂いを嗅ぎ分け、危険を察知します。いわば動物的感覚をもった「霊的な鋭さの象徴」です。「ダマスコのほうを見張っているレバノンのやぐら」とは何を意味しているのでしょうか。聖書では敵は常に北からやって来ます。敵の来襲に備えて見張るのでなければなりません。そうした感覚を花嫁なる教会がもっていないとしたら、気づかないうちにやがて真理から外れた教えに染まってしまいます。特に、終わりの時代には、一見「悪い」とは思えない形で偽りの教えが教会に入り込んできます。偽りを嗅ぎ分ける「霊的識別力」をもって見張らなければなりません。


(9) 「あなたの頭はカルメル山のようにそびえ」

●「カルメル山」はかつて預言者エリヤとバアルの預言者たちが対決した場所です。そこで神はご自身の威光を現わされました。「頭」は思考や思いをつかさどる場所です。したがって、「カルメル山のようにそびえ」とは、花嫁の思いが常に花婿に向けられ、花婿のことしか考えない、「一途さ」を象徴しています。なぜなら、「キリストのかしらは神」(Ⅰコリント11:3)であるように、妻のかしらは夫であり、花嫁のかしらは花婿だからです。これは創造の秩序によるものです。


(10) 「あなたの乱れた髪は紫色」

●「髪」は「献身の象徴」です。「乱れた髪」と新改訳は訳していますが、むしろ、「垂れ下がった髪」という意味です。その髪が次行では「ふさふさした髪」と言い換えられています。その髪の色が「紫色」にたとえられています。「紫」を表わす原語は「アルガーマーン」(אַרְגָּמָן)で、紫色は「王・王家の者の象徴」です。

●「王はそのふさふさした髪のとりこになった」とあります。「とりこになる」と訳された「アーサル」(אָסַר)の受動態は「つながれる」の意味です。最初のアダムが自分の中から造られた「女」、つまり「ふさわしい助け手」として造られた「女」(「イッシャー」אִשָּׁה)を見て感動したように、花婿にとって花嫁はまさにそのような存在なのです。

●キリストの花嫁である教会は、やがて王となられる花婿の王妃として同じ権威の座に着くのです。それゆえ、多くの御使いたちはこの花嫁に仕えることになるのです。

  • 雅歌は一見、男女の愛(性愛)を描いているように見えます。しかし、これが正典とされているのは、神のご計画のマスタープランにおいて重要な事柄を指し示しているからに他なりません。そこから外れて雅歌を解釈するならば、必ず的外れな解釈になるのです。特に、キリストの花嫁である教会についての概念を深く学び、その視点から雅歌を味わうなら、雅歌が教会の様々な面を一つのピクチャーのように啓示していることが分かるのではないかと思います。神のご計画のマスタープラン(「御国の福音」)の枠から決して外れないことです。


2015.9.8


a:3178 t:2 y:1

powered by Quick Homepage Maker 5.2
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional