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花婿を捜し求める花嫁

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雅歌は、花婿なるキリストと花嫁なる教会のかかわりを学ぶ最高のテキストです。

10. 花婿を捜し求める花嫁

【聖書箇所】 3章1〜4節

ベレーシート

  • 3章1〜4節は、2章8〜17節と同様に、花嫁は眠りの中にいるのかもしれません。その夢の中で花婿の姿を見失い、その方を捜そうとしている花嫁の姿がありますが、花嫁が一人で夜の町を巡り回って花婿を探すことは現実にはあり得ないはずです。それゆえ花嫁の夢想の出来事なのです。

【新改訳改訂第3版】雅歌3章1~4節
1 私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。
2 「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私の愛している人を捜して来よう。」私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。
3 町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。「私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。」
4 彼らのところを通り過ぎると間もなく、私の愛している人を私は見つけました。この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました。

  • さて、1〜4節までの各節に「私の愛している人」(「シェアーハヴァー・ナフシー」שְׁאָהֲבָה נַפְשִׁי)という言葉が繰り返して出てきます。まるで夜中に目を覚ました子どもが母親を呼び続けながら、涙を流して探している姿のようです。

1. 見失った花婿を探すのは花嫁しかいない

  • 花嫁にとって花婿の姿を見失うことは一大事です。そのために花嫁は彼を探し求めようとします。この「探し求める」と訳された動詞は「バーカシュ」(בָּקַשׁ)です。「バーカシュ」は、理性的に尋ね求める「ダーラシュ」(דָּרַשׁ)とは異なり、むしろ心情的な意味において慕い求めることを意味します。しかもその「バーカシュ」が強意形のピエル態で4回も使われているのです。花嫁がどんな気持ちで花婿を探し求めたかが伺えます。また、夜に床から起き出して、町や通りや広場を「行き巡る」という動詞(「サーヴァヴ」סָבַב)も強意形のピエル態なのです。
  • ところが、そう簡単に見つけられなかったようです。町を行き巡る夜回りたちに「私の愛している人を見かけなかったか」と聞きますが、空振りに終わりました。夜回りたちに尋ねたとしても一緒に探してはくれません。そもそも彼らはそんなことには無関心なのです。
  • しかし花嫁は、とうとう「私の愛している人」を見つけます(3:4)。原文を見ると「見つけました」という動詞の前に「アド」(עַד)という前置詞があります。同じくこの前置詞は、見つけた花婿を・・のところまで「連れてくる」という動詞の前にも置かれています。この前置詞の意味合いから、「とうとう」「やっと」見つけて、「しっかりと」家まで連れて来たといったニュアンスが感じられます。見失った花婿をどこまでも探し求めて見つけるのは、花嫁以外にはいないのです。このことは当たり前のように思えますが、現実はそうではないのです。

2. 夜(暗やみ)の中で花婿を探し求める花嫁

  • 3章1〜4節の舞台は「夜」(「ライラ―」לַיִלָה)です。その「夜」は、花婿と花嫁のかかわりにおける霊的な「夜」なのです。そして、その夜々(複数)の中で花嫁は愛する方を探し求めるのです。これは何を意味しているでしょうか。
  • マリヤ福音姉妹会のバジレア・シュリンク女史はその著『聖所の光に至る道』(カナン出版、1999年)の中で次のように記しています。

「夜を通り抜けた魂から出る光は、イエスが暗闇のただ中に灯された光なのです。・・夜空が月と星々の輝きを現わすように、霊的な夜に無となった魂は以前にもまさるすばらしい透明さと純粋さをもって、神の御霊の働きを反映するのです。魂が最も清められるのは夜です。ですから、神はその愛する選ばれた者たちすべてを夜の中に導かれます。」(53頁)

  • 使徒パウロの人生において、特別な意味をもった「ある夜」があったことを使徒の働きは記しています。最初の「夜」の経験ーこれは「ある夜」とは記されていませんが、ダマスコ途上でキリストに出会って彼の目が見えなくなったとき、その暗闇の中でパウロは「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」と尋ねています。それまでは自分が正しいと思ったことはどこまでも熱心にやってきた彼でしたが、ここでは完全に自分の生きるべき方向を見失っています。その時の祈りがこの祈りでした。「ダマスコに行けば、するように決められていることはみな、告げられる」と主から言われて、パウロはダマスコへ行きます。そしてそこで目からうろこのようなものが落ちて、新しいパウロが誕生したのです。
  • パウロの信仰生涯の中で冠詞を伴った特別な「夜」があるのは、使徒16章9節、および18章9節、23章11節の三回ですが、それぞれ「幻」によって、「幻の中の主の声」によって、直接主の声によってみこころが示されていきます。使徒パウロが経験した「夜」とは、「神はその愛する選ばれた者たちすべてを夜の中に導かれます」とバジレア・シュリンクの言うところの人です。
  • パウロが経験した夜は個人的なことかもしれません。しかし、キリストの花嫁である教会も、さまざまな熱心な働きや多くの集会をしながらも、時として花婿を見失ってしまうことがあるのです。いや、そのことに気づかないでいることさえ多いのです。しかし、それに気づいてどこまでも探し求めて見つけた花嫁は幸いです。
  • パウロが経験したダマスコ経験や八方塞りの状態、危険などは神が備えた「夜」でした。しかしそれは、花婿をどこまでも探して新たに見いだすための「夜」なのです。そんな視点からもう一度、雅歌3章1~4節の花嫁の心を味わいたいと思います。

【新改訳改訂第3版】雅歌 3章1~4節
1 私は、夜、床についても、私の愛している人を捜していました。私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。
2 「さあ、起きて町を行き巡り、通りや広場で、私の愛している人を捜して来よう。」私が捜しても、あの方は見あたりませんでした。
3 町を行き巡る夜回りたちが私を見つけました。「私の愛している人を、あなたがたはお見かけになりませんでしたか。」
4 彼らのところを通り過ぎると間もなく、私の愛している人を私は見つけました。この方をしっかりつかまえて、放さず、とうとう、私の母の家に、私をみごもった人の奥の間に、お連れしました

  • 4節にある「母」はヘブル語で「エーム」(אֵם)です。この言葉は「分岐点」「出発点」をも意味します。「母」は、花婿と花嫁の出合った「エルサレム」の象徴であり、また同時に「初めの愛」を意味しているようにも見えます(黙示録2:1)。


2015.8.19


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