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若者をその行く道にふさわしく教育せよ

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箴言は「父から子への知恵」、主にある家庭教育の根幹を学ぶ最高のテキストです。

33. 若者をその行く道にふさわしく教育せよ

【聖書箇所】22章6、15節

ベレーシート

  • 箴言22章から二つの聖句を取り上げます。この二つの聖句に共通している語彙は、「若者」、「子ども」と訳されている「ナアル」(נַעַר)です。「ナアル」は男の子を意味し、女の子は「ナアラー」(נַעֲרָה)です。しかし教育における「ナアル」は、「ナアラー」も含めた幼い子、子ども、少年、少女、若者として理解すべきです。二つの節は、「ナアル」の特質と彼らに対する教育とその効用について言及されています。

1.  主の道にふさわしく教育せよ

【新改訳改訂第3版】箴言22章6節
若者をその行く道にふさわしく教育せよ。
そうすれば、年老いても、それから離れない。

【新共同訳】
若者を歩むべき道の初めに教育せよ。
年老いてもそこからそれることがないであろう。

【口語訳】
子をその行くべき道に従って教えよ、
そうすれば年老いても、それを離れることがない。


●原文直訳は「あなたは教育せよ。少年に対して」です。「教育する」という動詞は「ハーナフ」(חָנַךְ)で、旧約では5回しか使われていません。そのうち4回は「ささげる」という意味で使われています。つまり、教育する前提として親が子を神にささげていることが重要です。

●キリスト教会では「献児式」があります。子どもの誕生は神からの賜物(プレゼント)ですが、それは親が子どもを自由に育てて良いということではありません。神から授かった(ゆだねられた)子として育てなければなりません。したがって「献児式」は子どものためというよりも、むしろその子の親のためのものです。つまり、神から授かった子としてふさわしく育てる(教育する)ことを神の前で約束する誓約式なのです。この式は主にある家庭を建て上げるために大切にされなくてはなりません。親は神に誓い、神からの祝福を受けて、いわば大事業に挑むようなものだからです。

●6節の前半のフレーズ(原文)は「その行く道にふさわしく」です。「ふさわしく」は「アル・ピー」(עַל־פִּי)という慣用句で、「~に従って」「~にふさわしく」と訳されます。「その行く道」とは「主の道」と理解します。

●そのように教育するなら、たとえ彼らが年老いたとしても、主の道から離れることがないとしています。人が主の道にふさわしく生きるためには、その最初の教育こそがとても重要だということが強調されているのです。


2. 「ナアル」の心は「愚かさ」につながれていることをわきまえる

  • 6節と関連して、15節を見てみましょう。

【新改訳改訂第3版】箴言22章15節
愚かさは子どもの心につながれている。
懲らしめの杖がこれを断ち切る。

【新共同訳】
若者の心には無知がつきもの。
これを遠ざけるのは諭しの鞭。

【口語訳】
愚かなことが子供の心の中につながれている、
懲らしめのむちは、これを遠く追いだす。


●新共同訳は「愚かさ」を「無知」と訳しています。原語は「イッヴェレット」(אִוֶּלֶת)で旧約で25回使われていますが、そのうち23回は箴言にあります。いわばこの「愚かな者」は箴言の特徴的な語彙と言えます。特にこの「愚かさ」は生まれながらにして、「若者の心」にしっかりと結びついているのです(「カーシャル」קָשַרの分詞形)。「愚かな者」とは「過ちを犯す者、短気な者、思慮に欠けた者、よく聞かないで返事をする者」などを意味します。この「愚かな者」と対比されるのが「悟りのある者」「英知のある者」「知恵のある者」「利口な者」です。

●この「愚かさ」や「無知」を唯一「遠ざける」「引き離す」「断ち切る」ことができるのは「懲らしめの杖」なのです。イェシュアが再臨されて地上で王なるメシアとして統治されるとき、彼の手には「鉄の杖」があります(詩篇2:9)。メシア王国(千年王国)では、朽ちないからだを持つ者と朽ちるからだを持つ者が混然としており、朽ちるからだを持った者たち(まり、まだ罪の性質を持ち合わせている者たち)は、結婚をして子どもを産みます。その子どもたちの心には「愚かさ」が結びついているために、イェシュアの「鉄の杖」が必要なのです。

●神の王国も、主にある家庭も、同じ課題と問題が潜んでいます。主の家庭を治め、そして建て上げることは、御国を治め、建て上げることの型なのです。


  • 主の道にふさわしく歩ませるためには、「子どもはかわいい」だけではすまされません。聖書は明確に「子どもの心は愚かさにつながれている」としています。ある人にとってはとても過激な表現のように思えることでしょう。しかし、子どもを育てたことがあるなら、このことが多少とも理解できるはずです。両親は主の家庭を築くために、「懲らしめの杖(鞭)」をもって教育する必要があります。それは常に一貫したものでなければなりません。まさに主に対する親の姿勢が問われているのです。これは主の助けなしにはとてもできない務めです。
  • 主にある教育をするためには、つまり、子どもが親から良い教育を受けるためには、親が子どもと多くの時間を過ごす必要があります。そうした生活を選び取る必要があります。たとえその選択が、経済的に貧しい道であったとしてもです。信仰の継承という課題は、今日においても「狭き門」です。このことを知るなら、結婚して家庭を持つことは「面倒なことだ」と思われる方も起こるかもしれません。ですから、結婚をして子を授かるということは、神の召し(召命観)なしにはとてもできないということです。このことは次世代の子たちへのメッセージとして、事あるごとに語って行く必要があるのです。

2016.1.29


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