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苦難に対するツォファルの神学(1)

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9. 苦難に対するツォファルの神学(1)

【聖書箇所】11章1~20節

ベレーシート

  • ヨブの友人の三人目である「ツォファル」(צֹפַר)の登場です。新改訳、新共同訳は「ツォファル」と表記されていますが、文語訳、口語訳は「ゾバル」、バルバロ訳では「ソファル」と表記しています。ヘブル語を見れば「ツォーファル」「ツォファル」としか読めないはずなのに、なぜ「ゾバル」「ソファル」となってしまうのか謎です。
  • 4節でツォファルがヨブに対して、ヨブの語っていることを要約してこう言っています。「私の主張は純粋だ。あなたの目にもきよい。」と言っています。それに対するツォファルの苦難に対する神学が語られています。

1. 神の知恵の奥義の深さを人は見抜くことはできない

  • ツォファルは、もし神がヨブに向かって語りかけ、神の知恵の奥義(秘密)を告げられるならば、「すぐれた知性を倍にしてくださるものを」と述べています。「すぐれた知性を倍にする」とは、12節では神の知恵の奥義が分かれば、「無知な人間も賢くなり、野ろばの子も、人として生まれる」という格言的なことばで言い換えられているように思います。
  • ところが、この「無知な人間も賢くなり、野ろばの子も、人として生まれる」(新改訳)ということばの意味が難解です。いろいろな訳を見てみましょう。

    ヨブ記11章12節
    (1) 関根訳
    もし野生の驢馬の子が一人前の驢馬になれれば、からったぽな頭も賢くなるであろう。
    (2) 中澤訳
    薄のろが聡くなれるなら、野ろばの子も人間になれよう。
    (3) バルバロ訳
    そう分かれば思慮のない者もかしこくなり、若い野ろばのような者も飼いならされる。
    (4) 口語訳
    しかし野ろばの子が人として生まれるとき、愚かな者も悟りを得るであろう。
    (5) 新共同訳
    生まれたときには人間もろばの子のようなものだ。しかし、愚かな者も賢くなれる。

  • この箇所の解釈はまちまちです。


【解釈1】
●新改訳の「無知」と訳されたことばは「からっぽ」(動詞「ナーヴァヴ」נָבַבの形容詞「ナーヴーヴ」נָבוּב)という意味でピーマン状態を意味します。そんな人間が賢くなるとあります。しかし、野ろばが人間に生まれ変わることは不可能であるから、無知な人間が賢くなれるというのは不可能なことを表わしているという解釈。
【解釈2】
●野ろばの子が人として生まれるほどの神の不思議なみわざによって、無知な人間も賢くしてくださるという解釈。
【解釈3】
●愚かな人間も苦難に会うと知恵を得、以前は飼いならすことのできない野ろばのようであったのが次第に人間らしくなるという解釈。
【解釈4】
●全知全能の神の前にへりくだるならば、神はすぐれた知性を倍にして賢くしてくださるという解釈。

  • いずれの解釈を取るにしても、ここでの「無知な人間」「思慮のない者」「愚かな者」「からっぽな頭」「薄のろ」とは、ヨブのことを指していることは言うまでもありません。脚注

2. さあ、考えを改め、主に向かって手をのべよ

  • そこで、ツォファルは「さあ、考えを改め、主に向かって手をのべよ。」(バルバロ訳)とヨブに悔い改めをうながします。つまり、どんなに自分が潔白で、純粋で、きよいと言ったとしても、神は罪ある者を見分けることができ、決してそれを見逃すはずはない方である。それゆえ、考えを改めて神に立ち返れば、神はその罪を赦してくださるから、「あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる」と説得しているのです。

3. ツォファルのいう「望み」(ティクヴァー)とは

  • ツォファルの語っていることは、これまで福音的な教会が語ってきたメッセージです。伝道説教において、キリストの十字架の福音を語る事に重きを置いてきた教会では、「神・罪・救い」という骨格なしには福音を語ることはできません。キリストの身代わりの十字架による罪の赦しの福音には、人間が罪人であるという前提がどうしても必要なのです。罪の意識とその苦しみ、あるいは、その罪の恐ろしさに目が開かれることなくして十字架の福音は意味をもたなくなるからです。真の希望は、その十字架の福音を信じて受けいれることです。そうするならば、ツォファルの言う「あなたの一生は真昼よりも輝き、暗くても、それは朝のようになる」と訴えます。さらに「望みがあるので、あなたは安らぎ、あなたは守られて、安らかに休む。」と続きます。
  • ツォファルの「悪者ども」の定義は、「自分の罪を認めず、悔い改めない人間のこと」です。その者には逃れ場(避け所)はなく、望みを持っていたとしても、それは「あえぐ息に等しい」、つまり「はかないもの」だと語っているのです。



脚注
●ヘブル語の「ナーヴァヴ」(נָבַב)は「中を空にする」「空洞にする」という意味です。旧約聖書でこの動詞は出エジプト記で2回(27:8/38:7)のみ。その形容詞の「ナーヴ―ヴ」(נָבוּב)もエレミヤ書(52:21)とヨブ記(11:12)の2回です。使用頻度数は少ないのですか、このことばは、本来、悪い意味で使われてはいません。

青銅の祭壇.jpg

●主の祭壇は中を空にして、板で造らなければなりませんでした(出27:8/38:7)。ソロモンの神殿の青銅の柱の中も空洞になっていました(エレミヤ52:21)。なぜ空洞にする必要があったのでしょうか。その神の意図は何であったのでしょうか。その空洞の意味は、おそらく人間的なもの(人間的な論理体系、倫理体系、教条や道徳の基準といったもの)が入り込んではならないことを示唆するものであったと考えられます。とすれば、「空っぽである」ことはすべてを神のもので満たすという意味で、むしろ、良いことであるのです。つまり、「空っぽな者」が賢くなるのは、野ろばが人間になるに等しいほどの神のみわざだという解釈が成り立つかもしれません。ただし、ヨブ記11章では、それはあくまでも神に向かって手を差し伸べる(祈る)ならばという条件付きで使われているようです。

2014.5.31


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