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詩篇118篇に見るメシア

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

16. 詩篇118篇に見るメシア

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ベレーシート

  • 詩篇118篇はこれまでの15の「メシア詩篇」を総括するにふさわしい詩篇です。この詩篇118篇がメシア詩篇であるのは、新約聖書に多く引用されているからです。
    特に、22節の「家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。」は、以下の箇所に引用されています。
    ①マタイの福音書21章42節。②マルコの福音書12章10~11節。③ルカの福音書20章17節。④使徒の働き4章11節。⑤エペソ書2章20節。⑥Ⅰペテロ2章7節。
  • また、26節の「主の御名によって来る人に、祝福があるように。」は、以下の箇所に引用されています。
    ①マタイの福音書21章9節、②同、23章39節。③マルコの福音書11章9節。④ルカの福音書13章35節、⑤同、19章38節。⑥ヨハネの福音書12章13節。
  • ちなみに、「主の御名によって来る人に、祝福があるように。」は、現代では「よくいらっしゃいました。主の御名によって祝福します(歓迎します)」という挨拶用語として使われているようです。しかし新約聖書では、詩篇が意味する「主の御名によって来る人」とは御子イェシュアのことだとして解釈され、ヨハネ12章13節では「イスラエルの王」としてのイェシュアと解釈されています。
  • 詩篇118篇は「エジプト・ハレル詩篇」(113~118篇)の最後の詩篇でもあります。このまとまった詩篇グループは、ユダヤの三大祭である「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」の際に歌われたようです。したがって、イェシュアが最後の晩餐で弟子たちと共に歌ったのは、この「エジプト・ハレル詩篇」だったと言われています。なぜ、「エジプト・ハレル」なのかと言えば、詩篇114篇の冒頭に「イスラエルがエジプトから、・・出て来たとき」とあるからです。六つの詩篇から成る「エジプト・ハレル詩篇」の特徴は、いずれも、主の卓越性を主題としています。こちらを参照
  • 詩篇118篇は以下のように、大きく三つの部分から成っています。
区分内容語り手
(1)賛美への呼びかけ(1~4節)【人称なき存在】としての御霊
(2)イスラエルの苦難の歴史(5~21節)【集合人格としての「私」】
(3)メシアによる最終的な救い(22~27節)イスラエルの民
メシアによる最終的な救い(28節)集合人格の「私」
メシアによる最終的な救い(29節)【人称なき存在】
  • 詩篇118篇は冒頭と結部にある定型句ー「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。」に挟まれる形になっています。

1. 定型句としての「ホドゥー・ラドナイ」

【新改訳改訂第3版】詩篇118篇1節
【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
その恵みはとこしえまで。

【新共同訳】詩編118編1節
恵み深い主に感謝せよ。
慈しみはとこしえに。


●新改訳と新共同訳を比較すると、新改訳は「いつくしみ」と「恵み」とあるのに対して、新共同訳は「恵み」と「慈しみ」と訳されています。原語は「トーヴ」(טוֹב)と「ヘセド」(חֶסֶד)であるにもかかわらず、日本語訳は全く逆のように訳されています。混乱を招きかねませんが、これらのことばを使うときには、分かち合う対象がどの聖書訳を使っているのかを考慮しながら、明確に意識して使う必要があります。

●「いつくしみ」(「トーヴ」טוֹב)の英語訳はgood、「恵み」(「ヘセド」חֶסֶד)の英語訳は love, constant love, steadfast loveで、それは「変わることのない愛」「確固とした愛」「不変の愛」を意味します。

●「いつくしみ」と「恵み」は、しばしばワンセットで用いられます。詩篇23篇の結論に、「まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。」(23:6)とダビデは記しています。主は常に「良い方」であり、常に変わることのない愛をもってかかわってくださっていることを私たちは確信する必要があります。

●詩篇118篇24節に見られる「この日を楽しみ喜ぼう」にある「楽しみ」と「喜び」もしばしばワンセットで用いられます。ちなみに、新共同訳はその部分を「喜び祝い、喜び踊ろう」と訳しています。いずれも動詞が使われています。「楽しむ」(「ギール」גִיל)ことと「喜ぶ」(「サーマハ」שָׂמָח)ことは、やがて完成される御国の基調です。「楽しみ」も「喜び」も、すでにキリストのよみがえりを通してこの世に種のように蒔かれています。しかしそれが最大限に開花するのはキリストの再臨の時であり、私たちはその時を待たなければならないのです。


2. 集合人格としての「私」

  • 個人が集団を代表するというのはヘブル的な修辞法(語法)です。詩篇118篇で登場する「私」は、まさにイスラエルの民全体を代表しています。たとえば、ネヘミヤはイスラエルの民の罪を自分の罪として告白しています。イザヤ書の「主のしもべ」は、イスラエルの民が本来果たすべき使命を代わりに果たすしもべです。姦淫したゴメルもエフライム(北イスラエル)を代表している集合人格的存在なのです。
  • 詩篇118篇の「私」も、いつの時代においても繰り返し異邦の国々によって取り囲まれるイスラエルの民の代表的存在と言えます。

【新改訳改訂第3版】詩篇118篇10~14節
10 すべての国々が私を取り囲んだ。
確かに私は【主】の御名によって、彼らを断ち切ろう。
11 彼らは私を取り囲んだ。まことに、私を取り囲んだ。
確かに私は【主】の御名によって、彼らを断ち切ろう。
12 彼らは蜂のように、私を取り囲んだ。
しかし、彼らはいばらの火のように消された。
確かに私は【主】の御名によって、彼らを断ち切ろう。
13 おまえは、私をひどく押して倒そうとしたが、【主】が私を助けられた。
14 主は、私の力であり、ほめ歌である。
主は、私の救いとなられた。


●10節の「すべての国々」とは、エジプト、アッシリヤ、バビロン、ペルシャ、ギリシアの国々を指すと同時に、将来的には「獣」と呼ばれる反キリストを指しています。歴史の終わりまで、神の民イスラエルは「取り囲まれる」運命にあるのです。反ユダヤ主義は歴史の流れの中で絶えることなく台頭して来たし、これからも台頭してくるのです。そのことが「私を取り囲んだ(10,11,11,12節)」と表現されています。しかし、そうした「苦しみのうちから、私は主を呼び求めた」ことにより、「主は、私に答えて、私を広い所に置かれた」(5節)と告白しています。このことを10節では「確かに(まことに)私は主の御名によって、彼らを断ち切ろう」(10, 11節、12節)と表現しています。

●反ユダヤ主義が台頭し、たとえどんなにイスラエルを打ち倒そうとしても、主の右の手は高く上げられ、力あるみわざがなされてきたのです。それゆえ、「私は死ぬことなく、かえって生き、そして主のみわざを語り告げよう」(17節)と語っています。このことはイスラエルの民だけでなく、キリストにある私たちに対しても真実です。使徒パウロが「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)と述べているように、圧倒的な勝利者となるのです。


3. 家を建てる者たちの捨てた「石」が要石となる

【新改訳改訂第3版】詩篇118篇22~27節
22 家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石になった。
23 これは【主】のなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。
24 これは、【主】が設けられた日である。この日を楽しみ喜ぼう。

25 ああ、【主】よ。どうぞ救ってください。ああ、【主】よ。どうぞ栄えさせてください。
26 【主】の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは【主】の家から、あなたがたを祝福した。
27 【主】は神であられ、私たちに光を与えられた。
枝をもって、祭りの行列を組め。祭壇の角のところまで。


●この箇所には、「私たち」という人称が登場します。おそらく、それは、イスラエルの民を代表する集合人格の「私」が、同族の民によって捨てられた「石」(単数)とされたからだと考えられます。要の石となったメシアを信じる者たち、神によって光を照らされた者たち、その者たちこそ、ここに登場する「私たち」だと言えます。

●ここでの「石」は単数の「エヴェン」(אֱבֶן)で、御子イェシュアのことを指し示しています。「捨てた」と訳されたヘブル語は「マーアス」(מָאַס)で、きわめて辛辣な意味をもった語彙です。単に「捨てた」という意味ではこの動詞のもつ意味を正しく伝えていません。「マーアス」(מָאַס)は、忌み嫌う、吐き気を催すほどに嫌で嫌でたまらないものとして扱う、断固として拒絶し、さげすみ、軽蔑することを意味します。ところがそのような「石」を、神はご自身の家を建てる「要(かなめ)の石」とされたのです。このことは人間の目にはとても不可解なことであり、不思議な出来事なのです。イェシュアの十字架の死と復活はまさに人の目には不可解な出来事なのです。

●26節の「【主】の御名によって来る人(単数形)に、祝福があるように。」とあるのを、イェシュアは再臨するご自分に当てはめられました。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書23章37~39節
37 ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。
38 見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。
39 あなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。

●「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言う前に、イスラエルの民(ユダヤ人)はイェシュアをメシアと信じるための「ヤコブの苦難」という未曾有の苦しみを経験し、「恵みと哀願の霊」を注がれることで、目が開かれる経験をするのです。それは使徒パウロが「天からの光」を与えられることによって、はじめて霊の目が開かれたように、彼らも「祝福あれ。主の御名によって来られる方に」と言う回心をするのです。その後に、イェシュアは天から地上に戻って来られるのです。



2016.9.24


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