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詩篇16篇に見るメシア

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

3. 詩篇16篇に見るメシア

ベレーシート

  • 詩篇16篇の表題には「ダビデのミクタム」(「ミフターム・レダーヴィッド」
    מִכְתָּם לְדָוִד)とあります。「ミフターム」(מִכְתָּם)の「ミ」は「~から、~の中から」を意味する前置詞「ミン」(מִן)の省略形で、「金」を意味する「ケタム」(כֶּתֶם)の前にあります。したがって、「ダビデのミクタム」とは「ダビデの珠玉の歌の中から」、あるいは「ダビデの最高に美しい詩の中から」とも解することができます。
  • この詩篇16篇は、なにゆえにメシア詩篇なのでしょうか。それは、この詩篇がイェシュアについて書かれていると使徒ペテロが主張しているからです。

【新改訳改訂第3版】使徒2章25~31節
25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。
28 あなたは、私にいのちの道を知らせ、御顔を示して、私を喜びで満たしてくださる。』
29 兄弟たち。父祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。
30 彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。
31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。


●使徒2章25~28節には詩篇16篇8~11節が引用されています。

【新改訳改訂第3版】詩篇16篇8~11節
8 私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。
10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。


●詩篇16篇の「私」とはダビデのことだと私たちは考えますが、そうではありません。ダビデが「私」という存在について預言的に語っているのです。この「私」がダビデではないという証拠は、10節にある「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」という部分です。これを歌ったダビデについて、使徒ペテロはこう述べています。
「彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。」(使徒2:29~31)


1. 詩篇16篇の人称と数の確認

  • 詩篇1篇で登場した「その人」が、詩篇16篇では「私」という存在で表されます。この「私」(1人称単数・男性)はダビデ自身のことではなく、メシアであるイェシュアのことをダビデが預言的に語ったということを、初代キリスト教会の使徒ペテロが聖霊によって理解したのです。

2. 「私」という存在の特徴

  • 詩篇16篇の「私」の特徴について見てみましょう。

    (1) 「主に身を避ける者」(1節)
    (2) 「地にある聖徒たちの中に喜びを見出す者」(3節)
    (3) 「主を自分へのゆずりの地所、杯として受け取っている者」(5節)
    (4) 「助言を下さった主をほめたたえる者」(7節)
    (5) 「いつも、主を自分の前に置いている者」(8節)


3. 「主」と「私」の位置関係の変化

(1) 私はいつも、私の前に主を置いた

  • まず第一に注目したい点は、「私はいつも、私の前に主を置いた」(8節)という表現です。主と私の位置関係がここでは向かい合っているという点です。新共同訳は「わたしは絶えず主に相対している」と訳しています。原文は「レネグディー」(לְנֶגְדִּי)で、直訳は「私の前に」です。
  • 主が「人がひとりでいるのは良くない」として、「ふさわしい助け手」を人の骨と肉から造られました。「ふさわしい、相対している」という意味のヘブル語が「ネグドー」(נֶגְדוֹ)です。つまり、「イーシュ(男)」(אִישׁ)と「イッシャー(女)」(אִשָּׁה)のかかわりが、「主」と「私」のかかわりの「型」として表されているのです。この二者はいずれも「常に」(「ターミード」תָמִיד)向かい合っている関係なのです。その関係をダビデは「私はいつも、私の前に主を置いた」と表現したのです。

(2) 主が私の右におられる

  • 第二の注目点は、「主が私の右におられる」(8節後半)という表現です。この立ち位置は、「私の前に主を置いた」(8節前半)とは異なります。「私の前に主を置いた」という立ち位置は、「常に」とありますから、決して変わることのない立ち位置を意味します。ところが、「主が私の右におられる」という立ち位置は、11節で「あなたの右には」(つまり、ここでは主が私の左に位置している)とあることから、立ち位置が大きく変化しているのです。この変化が意味していることは何でしょうか。
  • 「主が私の右におられる」という意味の「右」は、信頼を意味する「右」です。結婚式で新婦が父の左腕につかまって入場します。つまり、新婦にとって右側に父が居るのです。これは、これまで花嫁が父の覆いの下で支えられてきたことを示します。しかし退場の際には、花嫁が花婿の右側になります。つまり、その立ち位置は花嫁が花婿の右腕的存在(ふさわしい助け手)となったことを示しているのです。
  • 「主が私の右におられる」という立ち位置が示していることは、「私」と表される「御子」が人として地上に置かれたときには、御子にとっての絶対的信頼として、御父が御子の「右におられた」ということです。それゆえ「私はゆるぐことがない」と語られています。ところが、復活後の御子は、昇天して御父の右に着座されました。つまり、御父にとって最も信頼すべき右腕的存在となって、詩篇8篇にあったように、万物を支配する権威と力を賦与された者となっているのです(8:6)。

4. メシア王国の基調は喜びと楽しみ、そして安息

  • 「私」で表される「メシア」は御父と一体です。そこには永遠のいのちという愛の交わりがあります。その愛のかかわりの世界に、私たちは「私」というメシアの存在によって招かれているのです。
  • メシア王国の基調は「喜びと楽しみ」、そして「安心(安息)」です。

【新改訳改訂第3版】詩篇16篇9~11節
9 それゆえ、私の心は喜び私のたましいは楽しんでいる私の身もまた安らかに住まおう
10 まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。
11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。


●「あなたの御前」(永遠の不変の立ち位置)と「あなたの右」(昇天後の立ち位置)では、「喜び」(「シムハー」שִׂמְחָה)と「楽しみ」(①「ギーラー」גִּילָה、②「ナーイーム」נָעִים)があります。なぜならそこにはゆるぎない「安心」(「ベタハ」בֶּטַח)があるからです。これらが満ち溢れるのは千年王国(御国)においてです。これらはすべて婚姻用語なのです。

●また、10節の「あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず」と「あなたの聖徒(単数)に墓の穴をお見せにはなりません。」のフレーズ、および、11節の「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。」のフレーズは同義的パラレリズムです。


2016.7.16


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