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詩篇2篇に見るメシア

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

1. 詩篇2篇に見るメシア

ベレーシート

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  • 詩篇1篇の「その人」は、詩篇2篇では以下のように言い換えられています。主に油注がれた「王」(「メレフ」(מֶלֶךְ)、天の座に着いておられる方が呼ぶ「わたしの子」としての「ベーン」(בֵּן)、あるいは、人称なき存在が指し示す「御子」(「バル」בַּר)、いずれも、単数形です。


①「主に油注がれた王」と呼んでいるのは、「人称なき存在」
②「わたしの王」と呼んでいるのは、「御座についておられる方」
③「わたしの子」と呼んでいるのは、「御座についておられる方」
④「御子」と呼んでいるのは、「人称なき存在」です。

  • 詩篇1篇の「その人」、および詩篇2篇の「主」「主に油注がれた者」「王」「子」「御子」に逆らう者たちはすべて複数形で表されています。詩篇1篇では「悪者」「罪人」「あざける者」が、詩篇2篇では「国々」「国民」「国民」「地の王たち」「治める者たち」と言い換えられます。

1.「きょう」という主の定め

【新改訳改訂第3版】詩篇 2篇7節
わたしは【主】の定めについて語ろう。主はわたしに言われた。
ここでの「わたし」は「子」「御子」のこと。

『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」ここでの「わたし」は「御父」のこと。
ここでの「あなた」は「子」「御子」のこと。


① 【新改訳改訂第3版】ヘブル人への手紙1章5節
神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。「あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。」またさらに、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。」

② 【新改訳改訂第3版】使徒の働き13章33節
神は、イエスをよみがえらせ、それによって、私たち子孫にその約束を果たされました。詩篇の第二篇に、『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ』と書いてあるとおりです。


  • 詩篇2篇は多くのところで引用されていますが、特に、7節にある「きょう、わたしがあなたを生んだ。」というフレーズの「きょう」をどのように理解すればよいのでしょうか。その理解の視座として、ヘブル的視点、御国の視点が必要です。
  • 「きょう」という言葉は、私たちが考えている「昨日、今日、明日」という意味での「今日」ではありません。ヘブル語では「ハッヨーム」(הַיּוֹם)で、「その日」とも訳せます。つまり「ハッヨーム」(הַיּוֹם)は、神によって「定められた日」、神によって「しるしづけられた特定の日」を意味します。いわば、不可抗力的な神のマスタープランを意味します。永遠者としての神のなされるご計画における「定め」(「ホーク」חֹק)が、時との関係で表現される時に「ハッヨーム」(הַיּוֹם)、すなわち「その日」、あるいは「きょう」(=「今日」ではなく「きょう」)と表現されているのです。
  • イェシュアが十字架の上で、強盗の一人に「あなたは、きょうわたしとともにパラダイスにいます。」(ルカ23:43)と語ったときの「きょう」も、神の定められた特定の日を意味していると考えられます。その証拠に、強盗の一人がイェシュアに対して、「あなたの御国の位にお着きになる時には、私を思い出してください。」と言っているからです。このことに注意する必要があります。この強盗が語った「あなたの御国の位にお着きになるとき」とは、イェシュアが天で御父に右の座に着いたときのことではなく、御子が地上に再臨され、王なるメシアとして地を支配されるときを意味しています。強盗が悔い改めたあとで、そのことを確信して語っていることばなのです。彼は自分の犯した罪を認め、それにふさわしい報いを今受けていることを自認しています。そして今群衆の呪いと嘲りの声が渦巻く中で、ともに死にゆくメシアであるイェシュアに、「私を思い出して下さい」と願っているのです。彼に対するイェシュアの答えは迅速、かつ確実でした。「あなたはきょう、わたしといっしょにパラダイスにいます」。なんとあざやかな救いの宣言でしょう。ここでの「きょう」も「ハッヨーム」であり、私たちが考える「今日」(today)という意味ではないのです。メシアニック・ジューの聖書によれば、「パラダイス」を「エデンの園」である「ガン・エーデン」(גַּן־עֵדֶן)という意味で訳しています。
  • アダムとその妻エハは罪を犯した後で「エデンの園」から追放されました。ですから、もしそこにイェシュアと人が共にいるということが可能であるとすれば、人は新しいからだをもっていなければなりません。ですから「あなたはきょう、わたしといっしょにいる」ということは、神の定められた時に実現する「パラダイス」(=回復された「エデンの園」)に、「あなたは、わたしとともにいる」ことを約束されたと理解すべきです。
  • ルカの福音書2章11節の有名なクリスマスのみことば、「きょうダビデの町(ベツレヘム)で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。」とあります。ここでも「きょう」は、神が定められた「ハッヨーム」(הַיּוֹם)です。そして「お生まれになりました」は、「生んだ」(「ヤーラド」יָלַד)の完了形受動態です。神はご自身の約束に従って、神である御子を時間の中へ、歴史の中へと介入させたのです。御子は人間として最も弱い立場である赤子としてスタートし、その生涯の終りには人間として恥辱と死を味わわれました。「味わう」という動詞はアオリスト中態(受動態でなく)で、自らの主体的な意志によって「味わった」のです。それは御子ご自身のためではなく、「私たちのため」です。
  • 主の祈りの中に「みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえ」とあるように、天にある主の定めをなす御子を地に介入させるという意味において「生んだ」という表現がなされていると思われます。「あなたの御国の位にお着きになる時には、私を思い出してください。」と言った強盗は神に立ち返ったことで、神の定め(ご計画)を悟ったのです。
  • 御父は御子にこう告げられます(詩篇2篇8~9節)。

    8 ・・わたしは国々をあなたへのゆずりとして与え、地をその果て果てまで、あなたの所有として与える。
    9  あなたは鉄の杖で彼らを打ち砕き、焼き物の器のように粉々にする。


  • 御父はこの御子に敵の審判をゆだねられます。御子は「鉄の杖(曲がることのない権威の杖)」で、敵を打ち砕き、全世界を統治されます。その日は刻々と近づいています。勝利はすべて十字架と復活のみわざを通してなされましたが、この世において、それが目に見える形で実現するのはまだ先のことです。シオンに立てられたメシアが勝利をもって諸国を治め、世界を支配するという枠組みは、キリストの再臨によってもたらされる千年王国において実現します。そしてその実現が間近に迫っているのです。それゆえ、人称なき存在(作者)は、全世界のこの世の支配者たちに降伏を呼びかけ、御子に対する礼拝を呼びかけているのです。ここで呼びかけているのはだれでしょうか。それは「人称なき存在」である聖霊です。

【新改訳改訂第3版】詩篇2篇10~12節
10 、王たちよ、悟れ。地のさばきづかさたちよ、慎め。
11 恐れつつ【主】に仕えよ。おののきつつ喜べ。
12 御子に口づけせよ。主が怒り、おまえたちが道で滅びないために。怒りは、いまにも燃えようとしている。


  • ところで、10節の「」は、神の定めた「ハッヨーム」(הַיּוֹם)ではなく、常に呼びかけられている「今」、つまり「アッター」(עַתָּה)が使われています。その「今」だからこそ、「悟る」のに望みがあります。しかしやがては、そのチャンスを失ってしまう時が来ます。その時は主を信頼する者にとっては救いと喜びの日となりますが、そうではない者にとってはさばきと滅びの日となるのです。それが主の定め(神のマスタープラン)である「ハッヨーム」(הַיּוֹם)です。それゆえ人称なき存在は、地のすべての王たちとさばきつかさたちに対して、御子に「口づけせよ」(「ナーシャク」נָשַׁק)と命じています。昔、中近東では、支配者に対する忠誠と従順を表わす行為として足に口づけしたようですが、ここでの御子に「口づけせよ」とは、御子を礼拝するようにとの招きです。
  • 「悟れ」(目を覚ませ)、「慎め」(教えを受けよ)、「恐れつつ主に仕え、おそれつつ喜べ」と呼びかけます。それは、主の怒りから免れるために、自らの道で自滅しないように、神の代理者である油注がれた御子を礼拝することを、「人称なき存在」である聖霊が呼びかけているのです。
  • 神が王であるという思想は詩篇の中に数多くあります。たとえば詩篇93篇、96篇、97篇、99篇がそうです。すでに王である小羊イェシュアは、今、御父の右の座に着き、大祭司して、私たちのためにとりなしておられます。ですから、たとえ、どんな問題(艱難、苦しみ、迫害、飢え、危険等)が襲ったとしても、だれも神の愛から私たちを引き離すことはできません。なぜなら、この「主に油注がれた方」によって、私たちはやがて圧倒的な勝利者となることがすでに定められているからです。 

2. 神の「定め」

  • 「定め」と訳された「ホーク」(חֹק)は、権威ある神の「定め」であり、それは神のご計画、神のマスタープランを意味していると考えられます。詩篇2篇は、神の救いの計画の全体の概要を示しているという意味において預言的な詩篇と言えます。すでにキリストの初臨において神の勝利の布石は置かれています。しかし、詩篇2篇に記されていることが成就するのはキリストの地上再臨の時です。
  • 私たちの現実におけるさまざまな不条理な事柄でさえも、神の救いの歴史の全体像の中で理解することが求められています。そしてそれが神への信頼をより深めていくと信じます。ところがなかなかこれができないのが私たち人間です。いつの時代においても、神と神に油注がれた者に敵対する勢力は存在します。それはサタンが神と人とのうるわしい信頼関係を妬むからでしょう。しかし詩篇2篇で記されているように、「天の御座に着いておられる方は笑う」のです。つまり、神はご自身に対して敵対する者たちに対して、ものともせず、動じないのです。むしろ、神ご自身が自ら王を地上に立て、鉄の杖で彼らを打ち砕かれるという構図がはっきりと示されています。私たちはこの構図の森の中に存在しています。このような構図を私たちがどれだけ信仰によって見ることができるかによって、神への信頼は強まると信じます。

3.「主に身を避ける」という表現

  • 第1篇と第2篇に共通する「幸いなことよ」(新改訳)に注目します。尾山訳では「ああ、なんと、幸いなことだろう。」ですが、この訳のほうが、実感がこもっているように思います。第1篇では、積極的な意味で、幸いな人とは、「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」人でした。そして第2篇では、「幸いな」(12節)人とは、「すべて主に身を避ける人」(複数)です。
  • 「身を避ける」ということばをいろいろな訳で見ると、口語訳では「寄り頼む」、関根訳「依り頼む」、共同訳では「避けどころとする」、LBでは「信頼する」、NKJV訳では trust となっています。この「身を避ける」と訳されたことばは、実に詩篇全篇に、しかも、頻繁に、均等に登場します。それだけ神との関係において重要なキーワードと言えます。
  • 詩篇2篇の「主に身を避ける」とは、<防衛の保障>の祝福をもたらします。防衛を表わす用語として、盾、岩、避け所、とりで、助け、力・・といった表象が用いられます。詩篇3篇にはその表象が出てきます。私たちが身を避けることのできる方がだれであるのか、はっきりしている時は賛美がなされ、それがはっきりしないときは嘆きとなって表われます。「地的現実」に目を向けることなく「天的現実」に目を向けることが不可欠ですが、そのためには、神の定め(マスタープラン)における「きょう」を知らなければならないのです。

4. 付 記

  • ところで、新約で「きょう」(「セーメロン」σήμερον)という語彙を福⾳書の中から検索してみると、マタイ 5 回、マルコ 1 回、ルカ 11 回、ヨハネ 1 回です。ルカが圧倒的に多く使っています。その最初は「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお⽣まれになりました。この⽅こそ主キリストです。」(2:11)。最後は「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(23:43)です。イェシュアの⽣涯がその最初の「きょう」と最後の「きょう」の中に囲い込まれているのです。ルカはこのことを明確に意識して書いているように思われます。
  • ちなみに、ルカの福⾳書の中で他に使われている重要な箇所を以下に⾒ることができます。

①「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家にとまることにしてあるから。」(19:5)
②「きょう、救いがこの家に来ました。この⼈もアブラハムの⼦なのですから。」(19:9)
③「きょう鶏が鳴くまでに、あなた(ペテロ)は三度、わたしは知らないと⾔います。」(22:34)


  • ①②の「きょう」は、「失われたアブラハムの子」(イスラエルの民)に対する救いがなされることが、神の定められた必然の出来事として、目に見える形で実現されることを示唆する「きょう」と考えられます。③のペテロの否認の出来事は、マタイもヨハネも記しておらず、ルカとマルコのみです。しかもマルコの「きょう」はこの箇所にしか使われていません。イェシュアの弟⼦の筆頭格のペテロが、完全にイェシュアを否定するこの箇所は「きょう」という⽇時に意味があるのではなく、否認の背後にある最も深い暗闇が歴史の中に突⼊し、⽀配したことを暗⽰していると考えられます。それはペテロという個⼈を越えて、「終わりの⽇」に訪れる暗闇の⼒が神の定めの中で放たれるときを「きょう」という言葉で示唆していると考えられます。
  • ルカの福⾳書における「きょう」という⽤法は、純粋に時間的な意味での「きょう」というよりは、神の定められたご計画が、必然的出来事として時間の中に突⼊してくる時に⽤いられているように思われます。したがってルカ23章43節の「きょう」は、終末論的な意味において、メシアが再臨された「その⽇に」というニュアンスで解釈することができるのです。またヘブル訳聖書が「パラダイス」を「エデンの園」としているのは、明らかに「御国の福⾳」の視点から解釈されているのです。


2016.9.17


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