詩篇22篇に見るメシア
詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。
4. 詩篇22篇に見るメシア
ベレーシート
- 詩篇22篇はなにゆえにメシア詩篇なのでしょうか。それは、この詩篇の中にイェシュアの生涯、そして十字架による受難(身代わりの死)と復活、およびイェシュアが王として再臨し実現される千年王国(メシア王国)における数々のことが預言されているからです。
- イェシュアが十字架にかけられたときに語った「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。」という冒頭の叫びだけでも、この詩篇がメシアについて預言された詩篇であることが分かります。この詩篇22篇はメシアの全体像を知る上できわめて重要な詩篇であり、多くの時間をかけて学ぶべき価値のある詩篇と言えます。
- 「暁の雌鹿」(「アッイェレット・ハッシャハル」אַיֶּלֶת הַשַּׁחַר)の調べに合わせて歌われる「わが神、わが神。どうして私をお見捨てになったのですか。」で始まる詩篇22篇は、イェシュアの十字架の姿を想起させます。それは「美しい子鹿」を産むための、雌鹿の苦しみの叫びです。
1. 詩篇22篇の人称用語と数の確認
- 詩篇22篇で示されるメシアの称号は、詩篇16篇と同様に、1人称単数で示される「私」です。しかし詩篇16篇と異なるところは、神から見捨てられた「私」なのです。神だけでなく、周囲の人々からも完全に見捨てられた孤立無縁の「私」なのです。
- この詩篇22篇には、メシア称号としての「私」について、独自の修辞的表現があります。ここでは二つを取り上げます。
(1) 「雌鹿」
- ひとつは「雌鹿」(「アッヤーラー」אַיָּלָה)という比喩です。詩篇22篇の表題にある「暁の雌鹿」(「アッイェレット・ハッシャハル」אַיֶּלֶת הַשַּׁחַר)という表現はこの詩篇にしかありません。
- 神に受け入れられるきよい動物は、家畜では「牛、羊、やぎ」(レビ1章)。野生では「鹿」の類です(申命記14:5)。聖書には多くの種類の「鹿」について記述されていますが、科目としては「ウシ科」です。いずれにしても、これらに共通する点は「反芻する」「ひづめが分かれている」こと(レビ11章)、そして「草食」だということです。ですから詩篇22篇にある「雌鹿」は神に受け入れられるきよい動物なのです。雅歌では「愛する人」のことを「雌鹿」「かもしか」「若い鹿」にたとえています(雅歌2:7,3:5,8:14)。この詩篇がメシア詩篇であることを考えるならば、ここでの「雌鹿」は御父から愛された御子を啓示していると考えられます。
(2) 「虫けら」
- 6節に「私は虫けらです」(「アーノーヒー・トーラアット」אָנֹכִי תוֹלַעַת)というフレーズがあります。とても人とは思えない、人間の屑、民の恥を意味します。この姿はイザヤ書53章2~3節の「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、・・人が顔をそむけるほどさげすまれ・・」の箇所を想起させます。
2. 「私」を取り巻く者たちの比喩
- 詩篇22篇ではこの「雌鹿」「虫けら」ともいうべき「私」が、四つの動物によって取り囲まれています。これらの動物は「力の強いもの」の比喩として用いられています。その四つの動物とは「雄牛」「野牛」「犬」「獅子」です。「雌鹿」「虫けら」が単数であるのに対して、「獅子」(「アリー」אֲרִי)を除いた残りの三つの動物、「雄牛」(「パーリーム」פָּרִים)、「野牛」(「レーミーム」רֵמִים)、「犬」(「ケラーヴィーム」כְּלָבִים)はすべて複数形です。
①「雄牛」
イスラエルの指導者たちをたとえていると考えられます。彼らはイェシュアを捕らえて、不当な裁判を行ない、群衆を先導しローマの総督ピラトを脅して十字架へと追いやりました。
②「野牛」
「十字架につけろ」と一斉にわめき叫んだ群集たちを指していると考えられます。
③「犬」
「犬」ということばは16節と20節に出てきますが、前者は「犬ども」で複数です。後者は「犬の手」と単数です。本来、ユダヤ人が「犬」という言い方をするのは「異邦人」に対してです。そのことを考えると、複数は「ローマの兵士たち」を指し、単数は「ローマ総督ピラト」を指すと考えられます。
④「獅子」
13節には「ほえたける獅子」、21節には「獅子の口」という表現があります。「獅子」(「アルイェー」אַרְיֵה)は、いずれも単数で使われています。「獅子」はサタンを表わす暗喩です。サタンは十字架において最大の攻撃をキリストに対してなしました。しかし「雌鹿」であり「虫けら」である「私」が指し示す神の御子イェシュアを倒すことはできませんでした。
3. 「お答えになりません」から「答えてくださいました」へ
- 詩篇22篇は大きく二つの部分に分かれます。前半が「神に見捨てられた私」であるとすれば、後半は「神に受け入れられた私」と言えます。その変わり目の部分が21節後半の「あなたは私に答えてくださいます」(新改訳)と訳されたフレーズです。「アニーターニ」(עֲנִיתָנִי)というヘブル語で表されています。文法的には2人称男性単数完了形ですが、完了形を「確信的完了形」と理解し、新改訳の場合「あなたは私に答えてくださいます」としています。この神からの答えが、「死からのよみがえり(復活)」の出来事であると考えることができます。私個人としては、この箇所を預言的完了形と理解し、つまり必ずそうなると信じて「あなたは私に答えてくださいました。」と訳すべきだと考えます。するとその後の部分が「それゆえ、私は・・・しましょう」という意志につながり、その結果「私の兄弟たち」、すなわち、多くの会衆(教会)に御名が伝えられ、「イスラエルのすべてのすえ(子孫)」に対しても、そして地の果てにまでもその出来事の祝福が伝えられることとなります。ここには、教会の誕生が示唆され、ヤコブ(全イスラエル)の主への立ち返り、そしてそれが実現したメシア王国(千年王国)にまで、主の答えとしての祝福の射程が示されています。
4. 「雌鹿」「虫けら」としての「私」が神に見捨てられるべき理由と目的
- エマオの村に向かう途上の二人の弟子に現われたイェシュアは、失望している彼らに次のように語られました。
【新改訳改訂第3版】ルカの福音書24章25~27節
25 ・・「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
- イェシュアが聖書全体からどのように語ったのかは記されていませんが、メシアの苦しみの理由と目的について、以下のようにヘブル人への手紙に記されています。
【新改訳改訂第3版】ヘブル人の手紙2章9~10節、14~15節
9 ・・・イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
10 神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
- 詩篇22篇の中にある「私」で表わされているメシアの苦しみは、彼を通して成し遂げられる神の最終目的と結びつけて理解される必要があると信じます。神の壮大なご計画の中には、御子イェシュアの十字架の苦しみがなくてはならなかったのです。そのことを知った会衆(教会)は、天地創造の前からあらかじめ備えられていたご計画とみこころとその御旨、およびその目的にますます目を向けなければならないと信じます。
2016.7.19
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