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詩篇24篇に見るメシア

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

5. 詩篇24篇に見るメシア

ベレーシート

  • 詩篇24篇がメシア詩篇であるのは、「栄光の王」(新共同訳は「栄光に輝く王」)という語彙が後半に五回も登場しているからです。メシアとは「油注がれた者」のことであり、その対象となるのは「王と祭司と預言者」ですから、詩篇24篇はメシア詩篇だとわかります。ただし、メシア詩篇と単なる「王をたたえる詩篇」との違いは、神のご計画にある御国を実現する王であるかどうかの違いです。その点から見るならば、詩篇24篇は明らかにメシア詩篇であることが理解できるのです。

1. 人称の確認

  • 人称を確認するためには、原文を見なければなりません。日本語訳では分からないことが多いのです。たとえば4節の「心がきよらかな者」の「者」、「欺き誓わなかった人」の「人」、5節の「その人」の「人」は、すべて人称代名詞の3人称男性単数の「彼」なのです。3節の動詞の「登る」「立つ」の主語も同様に「彼」なのです。つまり「イーシュ」(אִישׁ)でもなく、「アーダーム」(אָדָם)でもなく、「エノーシュ」(אֲנוֹשׁ)でもありません。人称代名詞の3人称男性単数の「彼」なのです。その「彼」が、詩篇24篇の後半(7〜10節)で「栄光の王」(新共同訳は「栄光に輝く王」)として現われるのです。
  • 前半で「彼」とし、後半で「栄光の王」とされているのには理由があります。その理由とは、前半の「彼」はメシアであるイェシュアの初臨の姿、つまり復活前の姿であり、後半の「栄光の王」は復活以後の再臨の姿を意味する称号なのです。
  • このように、人称、性別、数を確認するだけでも詩篇を理解する上でかなり役立ちます。それをヘブル語で確認できれば、より正確な情報となります。

2. 復活前のメシアの特徴

  • 詩篇24篇の3〜6節では、「彼」という人称で語られるメシアがどのような存在であるのかを語っています。

【新改訳改訂第3版】詩篇24篇3〜6節
3 だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。
4 手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。
5 その人は【主】から祝福を受け、その救いの神から義を受ける。
6 これこそ、神を求める者の一族、あなたの御顔を慕い求める人々、ヤコブである。 セラ


●3 節で問いかけられているのは、【主】の山に登ることができるのはだれか。【主】の山にある聖所に立つことができるのはだれかということです。その問いかけに対して答えているのが4節です。そして、その彼は神からの祝福を受けることによってヤコブの一族の代表となることが預言されています。

●「主の山」とは「シオン」「エルサレム」のことです。そこに登るということは何を意味しているでしょうか。ここで「登る」と訳された動詞は「アーラー」(עָלָה)です。登るという意味ですが、同時にここでは「全焼のいけにえ」として自分をささげることをも意味しています。

●次いで、そのエルサレムで「聖所」に「立つ」ということは何を意味しているのでしょうか。「立つ」と訳されたヘブル語は「クーム」(קוּם)で、「起き上がる、成就する」を意味する動詞です。したがって、「だれが、【主】の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。」という問いかけは、「全焼のいけにえのささげものが神に受け入れられ、かつ起き上がること、つまり、復活し得るものは誰か」という意味なのです。この問いかけに答えられる者は、やがて人となってこの世に遣わされるイェシュアの他に、だれ一人としていないのです。その意味においてこの詩篇は預言的です。

●4 節の「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人」とは、「全焼のいけにえとして神に自らをささげることのできる者」と同義です。それは「手、心、たましい、口」のすべてが神のみこころにかなっていることを示唆しています。そのような者が神から祝福を受け、義を受けるのは当然のことです。

●しかもこの祝福は、彼を通して、主を求める者たち、御顔を慕い求めるヤコブの一族に与えられるのです。イェシュアはこの祝福をもたらすために来られたのです。


3. 復活後のメシアの来臨の呼びかけ

  • 詩篇24篇の後半は、復活後のメシアの来臨の呼びかけです。

【新改訳改訂第3版】詩篇24篇7~10節
7 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
8 栄光の王とは、だれか。強く、力ある【主】。戦いに力ある【主】。
9 門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。
10 その栄光の王とはだれか。万軍の【主】。これぞ、栄光の王。 セラ


●ここに登場する「門」は心の門ではなく、エルサレムの城壁の門です。再臨のメシアは東門から入って来られます。その門は黄金の門と呼ばれています。イェシュアは初臨の時にはその門から子ロバに乗って入場されましたが、現在は完全にふさがれています。しかし、再臨の時には、その門から王なるメシアが入場されるのです。それゆえ、「門よ。おまえたちのかしらを上げよ。永遠の戸よ。上がれ。栄光の王が入って来られる。」と語られているのです。

●「門」と「戸」(扉)に対して「上がれ」と二度も命じられています。二度命じられているということは強調表現です。しかも、呼びかけられている「門」と「永遠の戸」はすべて複数形です。これらが意味しているのは、おそらくイスラエルの民たちのことだと考えられます。なぜなら、王が支配する国にはその王に従順に従う民がいなければならないからです。

●「上げよ」と命じる動詞は「ナーサー」(נָשָׁא)です。「ナーサー」は何かを上に上げる、手を上げる、声を上げる、目を上げるという意味がありますが、より重要な意味として、「赦す」があります。「赦される」ためには、彼らが悔い改めて神に立ち返ることが必要です。したがって、ここでの「上がれ」は神に立ち返ることを呼びかけているのではないかと考えます。

●力をもって来られる「万軍の主」に対してイスラエルの民ができることはただ一つ、「上げる」ことです。つまり神に立ち返ることなのです。それ以外のことは求められていません。ここでは動詞「ナーサー」(נָשָׁא)の基本形と受動態による呼びかけ(命令形)がなされています。特に、「ナーサー」の受動態の意味は「荷を負われる」ことから「罪が赦される」という意味になります。王なるメシアがエルサレムに入るためには、神の民の背信の罪が赦されることが必要です。そのために、作者とも御霊とも言える「人称なき存在」が、神への立ち返りを呼びかけているのです。


  • 詩篇24篇を上記のように解釈することによって、この詩篇はイスラエルの民に対する「預言的詩篇」となり、今日的詩篇ともなり得るのです。


2016.7.20


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