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詩篇37篇01~04節

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

1. 詩篇37篇1~4節

1 悪を行う者に対して腹を立てるな。
不正を行う者に対してねたみを起こすな。
2 彼らは草のようにたちまちしおれ、
青草のように枯れるのだ。

3 【主】に信頼して善を行え。
地に住み、誠実を養え。
4 【主】をおのれの喜びとせよ。
主はあなたの心の願いをかなえてくださる。


●1節も2節もそれぞれ二行からなっており、一行目と二行目は同義的パラレリズムです。さらに、1節と2節は合成的パラレリズムを構成しています。つまり、2節は1節で語られたその理由を示しています。

●3節の二行は同義的パラレリズム。4節は二行目が一行目の結果を示しているので合成的パラレリズムと言えます。さらに3節と4節を合わせても、合成的パラレリズムになっていると言えます。


ベレーシート

  • 詩篇37篇は40節からなる長い詩篇です。2~4節ごとに瞑想していきたいと思います。この詩篇は嘆願も、賛美も記されていません。知恵の詩篇と言われるように、教訓的な内容が語られています。

1. カインの系譜とセツの系譜

  • 「悪を行う者」(新共同訳「悪事を謀る者」)は「ラーア」(רָעַע)の使役形分詞複数形です。「悪い事をする者たち」「苦しめる者たち」「ひどい目にあわせる者たち」の意で、この語彙が最初に使われている箇所は創世記19章のソドムとゴモラの傍若無人な人々に対してです。他人を無視して、勝手で無遠慮な言動をする者たちを意味しています。彼らは緑豊かな地に住みながらも、神が与えた秩序に反して、自然の用を不自然の用に変えた人々です(セクシュアリー・カオス)の最初の人々でした。一方、「不正」と訳された「アブラー」(עַוְלָה)は単数形ですが、「行う者たち」にかかっています。「アブラー」(עַוְלָה)の初出箇所であるⅡサムエル記3章34節は、ダビデの将軍ヨアブが自分の地位を守ろうとして、サウルからダビデの下に寝返ったアブネルを殺めたところに使われています。ダビデはアブネルを殺したヨアブに対して、自分の甥でもあり、軍の将でもあったので、なんら責めることができなかったようです。
  • この詩篇37篇は、このような人々に対して「腹を立て」「うらやんだり」しないようにと強く諭しています(原文は命令形ではありません)。なぜなら、「腹を立てる」というのは、カインの系譜だからです。カインの系譜の特徴は、神のご計画に対して無関心であり、神から離れ、自分の力で自分を守ろうとする輩です。そうした彼らの文明は人間的には立派に見えます。しかし、聖書が示しているように、それは「草のようにたちまちしおれる」運命にあるのです。
  • カインの系譜とは反対に、セツの系譜があります。セツの系譜の特徴は、主の御名によって祈る輩です。聖書はそうした輩の系譜を連綿と記しています。セツの系譜はカインの系譜と異なり、きわめてマイノリティ(少数派)ですが、決して消え去ることはありません。自分のたちの弱さを知りつつ、神の助けを求め、神と神のみことばを信頼して生きる者たちです。セツは自分の子どもに「エノシュ」という名前を付けましたが、その意味は「弱い存在」という意味です。セツの系譜とカインの系譜とは、光と闇との系譜であり、明確な区別が求められるのです。詩篇37篇の書き出しがそうした区別をすることを諭していると考えるならば、この勧告は現代のセツの系譜にある私たちに対する警告だと知るのです。


2. 地に住み、誠実を養う

  • 3節の一行目に「【主】に信頼して善を行え。」ということが、二行目では「地に住み、誠実を養え。」と言い換えられています。「主に信頼する」こと、「善を行う」こと、「地に住む」こと、「誠実を養う」こと。これら四つの動詞はすべて命令形で記されています。つまり、「信頼せよ」「行え」「住め」「養え」と命じられているのです。
  • カインの系譜たちが住む地に「住み」、そこで神を「信頼して」そのみこころを「行い」、神に対する信仰(誠実)を「養う」ことが命じられているのです。知恵の詩篇には痛みの経験がその背景にあります。それは神の民がカインの系譜をうらやみ、その文化文明を求めたことによって亡国という憂き目を味わった辛い経験があるのです。その痛みを通して学び得た貴重な知恵があるのです。詩篇119篇71節の「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」とあるのは、そのことです。

3. 主をおのれの喜びとする

  • 4節ではもうひとつの命令である「主をおのれの喜びとせよ」があります。原文の直訳は「そして・深く喜べ・主によって」です。「喜ぶ」は「アーナグ」(עָנַג)の強意形ヒットパエル態です。つまり、自ら、自発的・主体的にそうしなさいという命令形です。「アーナグ」(עָנַג)ヒットパエル態で使われる場合、「上品に振る舞う」とか「(自分の)喜びとする」という意味になります。それは、ある意味で、自信をもった生き方を示唆しています。
  • マイノリティの世界において、主を自分の喜びとする生き方を決して恥じることなく、むしろそれを人に見せつけよというイメージです。イェシュアもそうした励ましを与えています。

【新改訳改訂第3版】ルカの福音書13章24節
努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。


●上記の箇所は、イェシュアが弟子たちに語ったことばの一節です。「努力して」と訳されたところに当てられているヘブル語は、「アーマツ」(אָמַץ)の強意形ヒットパエル態の命令形「ヒットアンメツー」(הִתְאַמְּצוּ)で、これは励まし用語です。旧約に有名な「強くあれ、雄々しくあれ」というフレーズがありますが、ヘブル語では「ハザク・ヴェ・エマーツ」と言います。後者の「エマーツ」אֱמָץが「アーマツ」אָמַץの命令形です。これは「雄々しくあれ」という激励用語です。このフレーズが語られた背景には目に見える敵に対する「恐れ」がありました(ヨシュア記1:9)。しかしルカの福音書13章24節のことばの背景にあるものは、マイノリティ・コンプレックス、つまり、マイノリティ(少数であること)に対する恐れです。ルカ12章32節には「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」とあります。小さいこと、少ないことを恐れる者に、イェシュアは神の国が、将来、必ず実現することを語り、「多くの者たちが見向きしないことであっても、勇気をもって神の国を求め続けることを堅く決心せよ」と励ましているのです。

●「寄らば大樹の陰」ということわざがあるように、だれでも大きいことや多いことは安心でき、良いことだと考えます。ですから、多くの者たちがそうした門から入り、そうした道を歩もうとします。しかしイェシュアの言われるのはそれとは逆です。多くの者たちが見向きしない門から入り、だれもが注目しない道を歩むためには、マイノリティー・コンプレックスに陥ることなく、常に「雄々しく」あることが必要なのです。したがって、ここは「努力して」というよりも「雄々しくあって」(自信をもって)と理解する方が自然なのです。

●そして、それは詩篇37篇4節の「主をおのれの喜びとせよ」につながるのです。しかも、そこには「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」という約束があります。「主をおのれの喜びとする」者の心には、おのずと主のご計画とそのみこころ、その御旨と目的が伴います。つまり、主の思いとひとつになるのですから、当然ながら、その願いは必ずかなうのです。自己本位な願いがかなうというのではありません。

●ちなみに、「主はあなたの心の願いをかなえてくださる」の「願い」は、「尋ね求める」を意味する「シャーアル」(שָׁאַל)という動詞から由来する名詞「シェエーラー」(שְׁאֵלָה)が使われています。主を尋ね求める者に主がどのように答えてくださるのか、使徒パウロを見ればおのずと分かります。なぜなら、使徒パウロのヘブル名は「シャーウール」(שָׁאוּל)だからです。


2016.12.2


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