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詩篇37篇30~33節

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

8. 詩篇37篇30~33節

ベレーシート

  • 30~33節にはひとつのまとまりが見られます。つまり、その箇所には神のご計画における知恵とさばきが、簡潔に、コンデンスされているのです。

30
正しい者の口は知恵を語り、
その舌は公義を告げる。
31
心に神のみおしえがあり、
彼の歩みはよろけない。
32
悪者は正しい者を待ち伏せ、
彼を殺そうとする。
33
【主】は、彼をその者の手の中に捨ておかず、
彼がさばかれるとき、彼を罪に定められない。


●ここには三者、すなわち「正しい者」、「悪者」、そして「主」が登場しています。30節と31節は同義的パラレリズム。その反意的パラレリズムが32節。33節は合成的パラレリズムです。いずれも主語はすべて単数です。


1. 「正しい者」の「口、舌、心」による歩み

  • 30~31節には「正しい者」の「口」(「ペー」פֶּה)、「舌」(「ラーショーン」לָשׁוֹן)、「心」(「レーヴ」לֵב)から発するものがあります。

(1) 口は知恵を語る

  • 「知恵」はヘブル語で「ホフマー」(חָכְמָה)です。これは、光、道、真理、いのち、門といった神の奥義の概念ともリンクします。その奥義とは、天地創造前から定められていた神のご計画、みこころ、御旨、目的と関係します。「正しい者」が語るとそうした「知恵」が語られるのです。ここで「語る」と訳された動詞「ハーガー」(הָגָה)は「口ずさむ」という意味があります。「主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」(詩篇1:2)とあります。詩篇1篇は「幸いなのはその人」がテーマですが、その人の特徴は、常に、主のおしえ(トーラー)を反芻し、にれはんで瞑想している人です。ですから、ひとたび口を開けば、それが口から出てくるような人なのです。まさに、イェシュアがそうでした。イェシュアは神のみおしえをたとえや比喩を用いて語ったのです。知恵とみおしえ(トーラー)は同義です。

(2) 舌は公義を告げる

  • 「公義」と訳された「ミシュパート」(מִשְׁפָּט)は、より包括的な概念です。もし、「知恵」の「ホフマー」が神の基本方針だとすれば、「ミシュパート」はその運営方針のようなものです。つまり、「ミシュパート」は、知恵をどのように目に見える形にするかという内容を持っているように思われます。

(3) 心にはみおしえがある

  • 口からはホフマーが語られ、舌からは神のミシュパートが告げられるのは、その人の心の中に神のトーラーが満ち満ちているからです。それゆえ、その人の「歩み」はよろけないのです。
  • 私たちの口からは賛美とのろいが出てきます。舌を制御することはだれにもできません。なぜなら、舌は少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちているからです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人はからだ全体もりっぱに制御できる完全な人です(ヤコブ3章)。そうした完全な人が、30~31節に登場しているのです。「正しい人」とは「完全な人」です。それはイェシュアを指し示しています。

2. 「悪者」の策略

32
悪者は正しい者を待ち伏せ、
彼を殺そうとする。

  • 神の「ホフマー」が語られ、神の「ミシュパート」が告げられることで、暗やみの中にいる「悪者」(単数)の罪が明確にされます。それゆえ、「悪者」は「正しい人」を待ち伏せ、殺そうとするのです。その「悪者」(単数)とはサタンです。あるいは、そのサタンに支配されている人物です。イェシュアに出会う前のパウロもその一人と言えます。イェシュアの受難と死はこのことを示す出来事でした。

3. 主のミシュパート

33
【主】は、彼をその者の手の中に捨ておかず、
彼がさばかれるとき、彼を罪に定められない。

  • 悪者が、「正しい者」をその手の中で支配し、また罪に定めようとしても、主は「正しい者」をそのまま放っては置かず、また罪に定めません。それゆえ「悪者」の計らいが成功することは決してないのです。イェシュアの十字架の死からの復活は、まさにそのことを明らかにした出来事でした。


2016.12.21


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