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詩篇40篇に見るメシア

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

6. 詩篇40篇に見るメシア

ベレーシート

  • 詩篇40篇はなにゆえに「メシア詩篇」と呼ばれるのでしょうか。その理由は、この詩篇のある箇所が、新約聖書において、メシアであるイェシュアのことについて記されていると解釈されているからです。これまでの詩篇1 & 2篇、および8篇、16篇、22篇、24篇でその一篇全体がメシアなるイェシュアを指し示していたのとは異なり、40篇では必ずしもそうではない箇所があります。たとえば、12節の「・・私の咎が私に追いついた・・それは私の髪の毛よりも多く・・」、14~15節の「私のいのちを求め、滅ぼそうとする者どもが、みな恥を見、はずかしめを受け・・。・・退き、卑しめられますように」がそれに相当します。だとしても、6~8節がヘブル人への手紙10章5~7節に引用され、イェシュアのことばとして語られたということは、それだけでもメシア詩篇と呼ばれるにふさわしいのです。しかもそれが神のご計画においてきわめて重要な事柄であるとすればなおさらのことです。

1. 「耳を開く」ことは「からだを造る」こと

  • ところで、ヘブル人への手紙は七十人訳(LXX)から引用しているためにヘブル語聖書(タナフ)とは以下の部分が異なっています。

【新改訳改訂3】詩篇40:6~7
6 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。あなたは、全焼のいけにえも、罪のためのいけにえも、お求めになりませんでした。
7 そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。
8 わが神。私はみこころを行うことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」

【新改訳改訂3】ヘブル10:5~8
5 ・・・「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました
6 あなたは全焼のいけにえと罪のためのいけにえとで満足されませんでした。
7 そこでわたしは言いました。『さあ、わたしは来ました。聖書のある巻に、わたしについてしるされているとおり、神よ、あなたのみこころを行うために。』」


  • 特に、詩篇では「あなたは私の耳を開いてくださいました。」とあるにもかかわらず、七十人訳聖書から引用したヘブル人への手紙では「あなたはわたしのためにからだを造ってくださった」(ヘブル10:5)となっています。今回は、その部分に焦点を当ててみたいと思います。
  • 詩篇の「あなたは私の耳を開いてくださいました」を、なぜ七十人訳聖書では「あなたはわたしのためにからだを造ってくださった」と訳したのでしょうか。その問いに対する答えはこうです。「耳を開く」で使われているヘブル語の動詞「カーラー」(כָּרָה)は、「掘る、穴をあける、刺し通す」という意味があります。出エジプト記21章に6年間、強制的に義務として仕えてきた奴隷が7年目には自由の身となるにもかかわらず、そのあとも自ら主人のもとで自発的に仕えたいと決心した者は、公に自分の耳をきりで刺し通さなければなりませんでした。それは奴隷が主人に対する、目に見える「愛のしるし」「従順のしるし」でした。そこから、しもべが「耳を開く」ことは、主人にとってはしもべ自身の「からだ全体」を受け取ることを意味すると解釈され、訳されたために、それを引用したヘブル人への手紙10章5節も「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」となっているのです。つまり、それはからだをもって神のみこころを行うためです。ヘブルの修辞法では一部をもって全体を表わします。ここでは「耳を開く」ことが「からだを造る」に対応しています。「耳」は「からだ」の一部分ですが、全体を代表しているのです。
  • 「あなたはわたしのためにからだを造ってくださった」の「あなた」は御父のことであり、「わたし」は御子イェシュアのことです。「造ってくださった」のギリシア語は「カタルティゾー」(καταρτίζω)で、「備えてくださった」とも訳され、「繕う、修繕して完全にする」という意味があります。何を修繕するのかと言えば、「からだ」です。つまり、神が「からだを造り、備えられたその目的は、本来、人間に与えられたからだを完全にするために修繕して、完成させるため」です。このために、イェシュアの「からだを造った」、あるいはイェシュアに「からだを備えた」のです。神学的な用語を使うならば、イェシュアの「受肉」です。
  • 受肉の秘義は、単に、私たちの罪の贖いのためのささげ物となるためだけではありません。旧約でのささげものの規定では、動物のいけにえによる贖いの効力は1年限りであり、その方法によっては神の本来の目的を達成することができませんでした。それゆえ、神は完全な、しかも一回限りの永遠のいけにえとして、御子イェシュアをこの世に遣わしました。しかし、真の受肉の秘義は人がイェシュアによって「新しいからだ」を与えられることです。なぜなら、からだは神のご計画を実現させる上で必要不可欠だからです。

2. ギリシア的思惟とヘブル的思惟の違い

  • ここで「からだ」と訳されたギリシア語の「ソーマ」(σωμα)は、人間のからだ(身体、肉体)、有機体としてのからだを意味するだけでなく、影(写し)の対義語である「本体」という意味があります。つまり、神に完全に受け入れられるささげ物としてのからだのみならず、御父という「本体」を写し出す影(写し)としての「からだ」です。それがイェシュアにおいて十全に現わされるために、御父がからだを備えられたのです。
  • ギリシア人にとっての「からだ」を意味するギリシア語の「ソーマ」(σωμα)は、新約聖書での使用頻度数は142回です。この「ソーマ」と関連して、ギリシア語にはもうひとつの語彙「サルクス」(σάρξ)があります。これはしばしば「肉」とか「人」と訳されます。Ⅰペテロ1章24節に「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ」とあるように、人間の脆弱な存在を表わす語彙です。また、人間のからだにある肉的、神に背く性質を意味します。「サルクス」(σάρξ)の新約聖書での使用頻度数は147回です。「ソーマ」(σωμα)とほぼ同じ頻度数です。
  • ギリシア的思惟(ヘレニズム)は、上記の二つの語彙が示すように、「形相」(Form)と「質量」(Matter)がコントラストな関係にあります。つまり、ギリシア的思惟では、目に見えない「たましい」が重要であり、それが「からだ」という枠の中に閉じ込められているものと考えます。ですから、いつかはその「からだ」から自由の身となることが救いだと考えています。ギリシア的思惟(ヘレニズム)では「からだ」は背負わされている厄介物という捉え方しかありません。ところが、へブライニズム(ヘブル的思惟)では、「からだ」は神のご計画においてきわめて重要なキーワードなのです。しかもこれを表わす語彙は一つしかありません。その語彙とは「バーサール」(בָּשָׂר)です。ここにヘブル的思惟とギリシア的思惟の明確な違いがあります。

3. ヘブル語の「バーサール」に隠された意味

  • この「バーサール」(בָּשָׂר)が聖書で初めて登場するのは創世記2章21~24節です。
    そこには4回、この語彙が登場します。

【新改訳改訂第3版】2章21~24節
21神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところのをふさがれた。
22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
23 人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私のからの。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」
24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一となるのである。


  • 21節、23節にある「肉」は物質的な「からだ」としての「肉」ですが、24節の「一体」と訳された「バーサール・エハーッド」(בָּשָׂר אֶחָד)にある「体」は、有機的、親密なかかわりを表わす概念です。この「バーサール」(בָּשָׂר)こそ、神と人、夫と妻、かしらとからだ、花婿(キリスト)と花嫁(教会)という結婚の一体性の概念を啓示するものです。からだの存在なしに夫婦の愛が成立しないように、からだの存在なくして神と人とが共に住むという御国を完成させることはできないのです。また、かしらなるキリストはからだなる教会の存在なしに何をすることもできないのです。このように、からだは永遠の愛のかかわりを実現させるためになくてはならないものなのです。それゆえに、イェシュアが死からよみがえり、信じる者にからだのよみがえりを約束しておられることは究極的な福音となるのです。
  • イェシュアが受肉されたその秘義は、キリストのからだから流れる出る血潮によって「バーサール」(בָּשָׂר)が贖われるだけでなく、むしろ、復活(よみがり)のいのちによって新しくされた「バーサール」によって、永遠に神と人とが共に住むことが実現するということです。これこそが、天と地の創造がなされる前に神があらかじめもっておられたご計画であり、エデンの園の回復なのです。その意味において、今回の「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。」というのは、御国を実現する上で、必要不可欠なことであったのです。
  • イェシュアが「御国の福音」を宣べ伝えた時に、多くの病める者たちが癒されました。また死んだ者(イェシュアはこれを「眠っている」と表現します)が生き返る奇蹟をなされました。これは決してイェシュア自身に人々の注目を集めるための一時的な手段ではなく、むしろ、永遠の御国の本質を現わすデモンストレーションであったのです。それゆえ、ヘブル語の「からだ」を意味する名詞「バーサール」(בָּשָׂר)の動詞「バーサル」(בָּשַׂר)のピエル態(強意形)が「良い知らせを告げ知らせる」という意味を持っていることは、特筆すべきことなのです。それゆえ、「からだ」に関する倫理のすべては、この根源的な事柄から理解される必要があるのです。


●追記として

●詩篇40篇には「アシュレー・ハッゲヴェル」(אַשְׁרֵי הַגֶּבֶר)というフレーズがあります。詩篇1篇の「アシュレー・ハーイーシュ」(אַשְׁרֵי הָאִישׁ)と似た用法です。詩篇1篇の「ハーイーシュ」(הָאִישׁ)は、昼も夜も主のおしえを口ずさむ「その人」でしたが、詩篇40篇の「ハッゲヴェル」(הַגֶּבֶר)はどこまでも主を信頼する「その人」なのです。

2016.7.23


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