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詩篇8篇に見るメシア

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詩篇は、神と私たちの生きた関係を築く上での最高のテキストです。

2. 詩篇8篇に見るメシア

ベレーシート

  • 詩篇8篇の表題のべブル語は「ミズモール・レダーヴィード」で、「ミズモール」(מִזְמוֹר)は「賛歌」を意味し、「ダビデ」(「ダーヴィード」דָוִד)の名前の前にある「レ」(לְ)は所有を表わす前置詞です。したがって、「ミズモール・レダーヴィード」(מִזְמוֹר לְדָוִד)で「ダビデの賛歌」となります。
  • しかしこの詩篇はダビデがメシアについて預言して歌ったものです。そのメシア的存在を、ダビデは「人」(「エノーシュ」אֱנוֹשׁ)と「人の子」(「ヴェン・アーダーム」בֵן־אָדָם)という語彙で表記しています。いずれも、男性・単数です。

【新改訳改訂第3版】詩篇8篇4節
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。
人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。


מָה־אֱנוֹשׁ כִּי־תִזְכְּרֶנּוּ (マー・エノーシュ・キー・ティズケレンヌー)
וּבֶן־אָדָם כִּי תִפְקְדֶנּוּ (ウーヴェン・アーダーム・キー・ティフケデンヌー)


1. 詩篇8篇の人称と数の確認

  • 詩篇におけるメシアは、必ず、3人称男性単数で表されます。詩篇1篇におけるメシアは、「その人」(「ハーイーシュ」)で登場します。詩篇2篇では、「その人」が①「主に油をそそがれた者」(「マシーアッハ」מַשִׁיחַ)、②「王」(「メレフ」מֶלֶךְ)、③「子」(「ベーン」בֵּן)、④「御子」(「バル」בַּר)と表され、すべて3人称男性単数です。

2. 詩篇8篇の人とは「最後のアダム」「第二の人」

  • なぜ、詩篇8篇がメシア詩篇と言われるのでしょうか。それはダビデがメシアを、5節の「人」(「エノーシュ」אֱנוֹשׁ)、同じく5節の「人の子」(「ヴェン・アーダーム」בֶן־אָדָם)と表し、預言的に語っているからです。「人」も「人の子」も、いずれも3人称単数男性です。決して一般的な「人間」を指しているのではありません。特別な「人」を指し示していることは、5~6節を見ると理解できます。そこではこう記されています。

【新改訳改訂第3版】詩篇8篇5~6節
5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。

【新共同訳】詩篇8篇6~7節
6 神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ
7 御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。


●上記の「人」と訳されている部分はすべて人称代名詞の「彼」であり男性単数です。主はその「彼」を「神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせ」、またご自身の御手の多くのわざを彼に治めさせ、「万物を足の下に置かれた」のです。ですから「彼」は尋常な人ではなく、特別な存在なのだと理解できます。特別な存在としての「人」は「肉体をもった死すべき弱き存在」(「エノーシュ」אֱנוֹשׁ)であると同時に、やがては「万物をその足の下に置く王的存在」(「ヴェン・アーダーム」בֶן־אָדָם)でもあるのです。特に「ヴェン・アーダーム」は「最初の人アダム」ではなく、「最後のアダム」「第二の人」とも呼ばれます(Ⅰコリント15:45, 47)。


3. 詩篇8篇にある二つのフレーズ

  • 詩篇8篇には二つの特異なフレーズがあります。一つは「幼な子と乳飲み子たちの口によって力を打ち建てられた」というフレーズ、もう一つは「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとされた」というフレーズです。

(1) 「幼子と乳飲み子たちの口によって力を打ち建てられた」

  • 「幼子と乳飲み子たち」とは、イェシュアの弟子たちのことを預言的に表現した比喩的表現です。イェシュアがこの世に来られた時、多くの奇蹟を通して自分がメシアであることを示そうとしました。ところが、ガリラヤに住む多くの人々はその奇蹟を見ても信じようとはしませんでした。そこでイェシュアは祈りの中でこう言いました。

【新改訳改訂第3版】マタイの福音書11章25~27節
25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現してくださいました。
26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。


●25節の「これらのこと」とは、数々の奇蹟を通して現わされた「御国の福音」のことです。この福音は「賢い者や知恵のある者には隠して」とあるように、だれでも理解できるものではなく、選ばれた者以外には分からないのです。その選ばれた者とはイェシュアの弟子たちのことを意味しますが、イェシュアは彼らのことを「幼子たち」と言ったのです。


(2) 「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとされた」

  • 「人」(原文では「彼」)のことを「神よりいくらか劣るもの」と表現しています。「いくらか」と訳されたことばは「少し」「わずか」という意味と、「しばらくの間」という意味があります。ここでは後者の意味で理解すると分かりやすいです。というのは、詩篇8篇6節がヘブル人への手紙2章7節に引用されており、そこでは「しばらくの間」と訳されているからです。「人」、すなわちメシアなるイェシュアは地上においてしばらくの間、神と比べるなら「不足した存在」「限定された存在」でした。とはいえ、充分に天の父を啓示されたのです。肉体をもっていたことが、ある意味で「限界をもっていた」という意味です。にもかかわらず、復活と昇天、そして再臨される時には、万物を足(原文では「両足」)の下に置く存在となります。詩篇8篇5節はイェシュアの初臨の時を表し、6節はイェシュアの再臨の時を表しているのです。

4. 「人」「人の子」に敵対する者たちの運命

  • 「人」「人の子」の男性単数で表されるメシアの周辺には、この詩篇の場合、「敵対する者」(複数)、さらに「敵」と「復讐する者」という(単数)が登場しています。単数で表される「敵」は反キリストのことを示唆していると考えられます。しかし単数の「人」「人の子」で表されるメシアは、彼らを「しずめる」のです。「しずめるため」と訳された「シャーヴァー」(שָׁבָה)の不定詞は、「とりこにするため」「断ち滅ぼすため」とも訳されます。

5. 神のご計画は人を通して地を支配させること

  • ダビデは神の本来のご計画と目的がこの地において実現した光景を見て、「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。」(1, 9節)と感嘆の声を上げています。それは人間が造られた目的である「地を支配する」ことが成就していることを信仰によって見たからです。しかし現在は、「あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました」とすることが実現していません(ヘブル2:7~8)。しかし将来、神のかたちに造られた人が「海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配する」ようになるのです、神は人に「地を治める」(創世記1:26)ことを必ず実現させます。そのために、最初のアダムの失敗を踏み直す人(第二のアダム=メシア)が必要だったのです。


2016.7.15


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