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詩100篇/B

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瞑想Ps100/B

  • 3節「・・わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」(新共同訳)
  • 3節「知れ。・・私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。」(新改訳)

◆詩篇100篇を「王の詩篇」として入れるかどうか、人によって意見が分かれるところです。この詩篇は詩95篇の前半部と非常に似ています。特に1,2,3,4節は、詩95篇の1,2,6,7節に対応しています。対比的なところは、詩95篇6節が「来たれ」と命じているのに対し、詩100篇3節では「知れ」となっていることです。

◆詩95篇の後半部7節に「私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。きょう、もし御声を聞くなら、メリバでのときのように、荒野のマサでの日のように、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」とありますが、その警告の背景には、主が、彼らを(第一世代の者たち)を「忌みきらい」、「心の迷っている民だ。彼らは、わたしの道を知っていない。」ということが神の怒りの根拠となっています。それゆえ、詩100篇では、「知れ」ということばが一段と重みを増すかたちになっています。何を「知る」のかといえば、そのひとつは、「主こそ神」であるということ、そして、もうひとつは「私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊」であるということです。特に、民が「主に養われる羊の群れ」(新共同訳)であるという認識が希薄になってはならないことを教えようとしています。

◆イエスの訣別説教の中で、「ぶどうの木とその枝」というたとえを通して、「とどまる」ことの大切さをイエスは弟子たちに語られました。その中の一節に、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」(ヨハネの福音書15章5節)と言われました。この真意を正しく理解することと、自分が「主に養われる羊の群れ」(「牧場の羊」)であることの認識は同義と言えます。

◆詩100篇はしばしは礼拝の招きの詞として用いられますが、礼拝の儀式として通り一遍に読まれるのではなく、礼拝する者たちがこの招きのことばの真意をいかに正しく理解して受け留めるか、その姿勢が問われているように思います。主に愛されている「喜び」と共に、「主に養われることなしに生きられない羊」としての認識が日々新たにされていくことが、礼拝者としての資質を高めていくものと信じます。

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