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詩106篇/B

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瞑想Ps106/B

◆詩篇106篇は105篇と同様に、イスラエルの歴史において、なんども繰り返して犯し続けてきた民の神に対する罪(不信の罪、不従順の罪、忘恩の罪、偶像礼拝の罪)を、神がアブラハムと結んだ「ご自分の契約を思い起こし、豊かな恵みのゆえに、彼らをあわれまれた」こと(45節)が綴られています。詩篇105篇と異なる点は、モーセとピネハスのとりなしの祈りがあることです。民の罪は、この後の歴史においても変わることなく繰り返されますが、御子イエスの十字架上における「父よ。彼らをお赦しください。彼らはなをしているのか分からずにいるのです」とのとりなしの祈りによって頂点に達します。そのとりなしの根幹にあるものは「恵みの契約」の存在です。

◆と同時に大切なことは、「私たちは先祖と同じように罪を犯し、不義をなし、悪を行った。」という告白(6節)です。使徒パウロは「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれた」(ローマ5章20節)と述べていますが、その恵みとは、主イエス・キリストを通して、永遠のいのちを約束するものです。それゆえ、私たちができることは主に感謝することしかありません。

◆詩篇の中の賛美の定型句である「ハレルヤ。主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで」(1節)のフレーズは、人間の罪の本質を知ることと、神の愛の本質を知ることとに比例します。まさに、「ほむべきかな。イスラエルの神、主、」です。

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