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詩107篇/B

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瞑想Ps107/B

◆詩篇107篇は形式的・構造的には、32節で終わってもおかしくない詩篇です。なぜなら、「この苦しみのときに、主に向かって叫ぶと」主は彼らを苦悩から救い出された。」ことを四つの面から描いているからです。そしてそのことのゆえに「主に感謝せよ。主まことにいつくしみ深く、その恵みはとこしえまで。」と感謝と賛美をささげるように促しているからです。しかし、作者はなぜ33~43節を加えたのか。そのことを考えてみたいと思います。

◆この最後の部分(33~45節)のキーバースは最後の43節「知恵のある者はだれか、その者はこれらのことに心を留め、主の恵みを悟れ。」と命じています。作者は「直ぐな人」(The upright)、「知恵のある者」に、「これらのことに」「心を留め」「主の恵みを悟」(「悟る」はビーン、「注目する、目を注ぐ」」とも訳されている)ようにと呼びかけています。ところでここにある「これらのこと」とは何か、それを正しく捉えなければなりません。

◆33~41節にある特徴的な動詞があります。それは「・・を・・に変える」とするシームשׂים(siym)です。旧約では583回が使われていますが、その多くは変化されることーたとえば、ある人をある場所に置いたり(put)、ある状態に置いたり(set up)、ある所からある所へ移動させたり、何かをさせようとさせたり(make)、ある状態を全く反対の状態に変えたり(turn)という場合に使われています。

◆詩107篇33, 35では最後の意味の「ある状態を全く反対の状態に変える」(He turned・・into・・)という意味で使われています。33, 34節では「川(大河を意味する)を荒野に、水の湧き出る所を潤いのない地に、肥沃な地を不毛な地ら変えられる(שׂים)。」この変化は罪に対する神のさばきとしての変化ですが、35節「主は荒野を水のある沢に、砂漠の地を水のわき上がる所に変え(שׂים)」はまさに神の恵みによる逆転のわざです。43節の「これらのことを心に留め、主の恵みを悟れ」とは、この逆転の神の恩寵のことです。

◆イザヤ書にはこの逆転の神の恩寵のことが繰り返し書かれています。41:18/42:16/43:19/49:11/etc.・・を参照。そこでは主ご自身が I will turn と宣言しています。闇を光に、荒野に道を、荒地に川をもうけ(make)、山々を道としようと・・。

◆エゼキエル書47章には「聖所からの流れ出るいのちの水」のヴィションが記されています。そこには今日では考えられない預言が記されています。あの「死海」に多くの魚が、多くの種類の魚が生息し、それを獲る漁師がそこに住むとあります。その川の両岸にはあらゆる果樹が成長し、葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつけると預言されています。同じヴィジョンがヨハネの黙示録22章1~2節にもあります。

◆荒野を川のある沢(湖)に変え、砂漠の地を水野わき上がる所(水源地)に変えて、そこに飢えた者たちを住まわせることのできる神―これが私たちの神であることを心から喜びたいと思います。

◆ヘンリー・ナウエンは『いま、ここに生きるー生活の中の霊性―』という本の中で、「予期せぬ喜びに気づく」ということを述べています。

  • 「私たちの住むこの世界は、悲しみに気づかせようと迫ります。新聞は交通事故や殺人、また個人やグループ、さらに国家間の争いについての情報をとめどなく流しています。・・そして私たちは、人と出会うとこう言います。『このことほ聞いたかい。あのことを見たかい。ひどい話だろう。とても信じられないよ。』・・・予期せぬ喜びとは、ことが思いがけなく好転したことを指すのではありません。そうではなく、すべての暗やみより神の光の方がはるかに現実性があること、すべての人間の偽りより神の真理のほうが強力であること、そして、神の愛は死よりも強いことに気づくことからきます。」(36, 41頁)

◆「知恵のある者はだれか。その者はこれらのことに心を留め、主の恵みを悟れ。」(43節)とあるように、いつも神とその恵みに目を注ぎながら、知恵のある者、直ぐな者として生きるよう促されています。

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